3 政策弁論と価値弁論の違いって何?

※この先は 2私なりの弁論の考え を読んだ後がおすすめです。

 

聴衆として政策弁論と価値弁論の見分け方、というか聞き分け方を考えていきましょう。ぶっちゃけ、どちらかわかる必要があるかと聞かれたら、別に必要ではないかもしれません。

しかし、どちらかを聞いている最中に考えている聴衆が一定数いる可能性は否定できません。事実、私は聞きながらこの弁論が政策なのか価値なのかは常に意識しています。

 

この聴衆の意識は時として弁士の説得を阻害します。例えば、価値弁論のつもりで書いた原稿を、政策弁論だと思い込んでしまった聴衆は解決策が提示されないと疑問を残すことになります。

聴衆視点での聞き分け方を考えれば、同時に原稿を書く側として聴衆を混乱させる可能性を低くできるわけです。

 

 

さて、弁論を聞き始めて政策弁論なのか、価値弁論を判断しようとする際、弁士が「今から私は政策弁論をします。」とか言ってくれることはまずありません。

弁論を最後まで聞いた段階の判断に関しては政策弁論に限って言えば、判断は容易です。弁士が政策弁論の基本4要素を守り、「~点の政策を提言いたします。」などと言い出したら、ほぼ間違いなく政策弁論のつもりで原稿を作成しています。

 

政策弁論を政策弁論たらしめる要素は、まさに政策を提言するかどうか、というところにあるのだと考えています。

 

逆に、政策弁論と価値弁論の2種類しかないと仮定すれば、政策弁論の4要素(特に解決策の提示)を満たしていない弁論は価値弁論だと判断してもよいわけです。

 

しかし、現実には4要素のうち、いくつかの要素にそもそも言及していなかったり、言及していることが聴衆に伝わりずらい弁論が存在します。

政策弁論ではない=価値弁論 というわけではなく、現実には政策弁論になりきれていない弁論の存在を認めなければなりません。

 

 

さて、政策弁論になりきれなかった弁論(これ以降は「政策弁論α」と表記)の中でも、特に解決策がない政策弁論αと価値弁論との見分け方は非常に困難です。

政策弁論の導入にも実体験を含める手法は広く浸透しており、弁士の体験の有無をもって判断するのは困難です。この区分に関しては価値弁論の部分で記述します。

繰り返しになりますが、聴衆視点で判別する必要があるかと言われれば判別する必要は必ずしもありません。

 

しかし、価値弁論として評価されるのか、はたまた政策弁論の要素が欠落した欠陥弁論として評価されるのかは審査員審査には少なからず影響しますし、結局弁士はどこに重きを置いていて、何を言いたいのか、という主張そのものを曖昧にします。この混乱を生じさせたのは弁士本人に他なりませんから、弁士の評価が下がり、入賞を逃すリスクを増やすことにもつながります。

 

政策弁論の原稿を書く際は、聴衆に価値弁論と勘違いをさせないような工夫が求められます。前述したとおり、途中で「~点の政策を提言します」と入れてけば、ほとんどの聴衆はこの段階で「政策弁論なんだな」と確信できます。ですが、そこに至るまでに政策弁論だと確信させる、少なくとも価値弁論だと勘違いさせないための工夫も同時に必要です。

 

簡単に3つほど手法を載せてみます。

①問題は解決されなければならない、というニュアンスを含めて解決策の提示を暗示

②既存の政策の欠点を指摘、これを現状分析の段階で行うことで説得力の向上を図るとともに新規政策の存在を暗示

③導入で用いた弁士の体験を一般化し、社会問題へと展開すること。

 

いずれにせよ、解決策が提示されるだろうという認識を聴衆に持たせることができれば、価値弁論と誤解される可能性はかなり低くなると考えられます。

 

 

 

さて、政策弁論を書く場合は割と簡単です。問題は、価値弁論をいかにして価値弁論たらしめるか、ということにあります。

価値弁論はその性質上、問題の解決を主目的にせず、あくまでも弁士の考え方や価値観を伝えることに主目的を置いています。

 

弁士の特筆すべき体験をもとに原稿が進むわけですが、この段階では政策弁論の導入としての体験紹介なのか、はたまた価値弁論なのかの判別はできません。

しかし、弁士の体験が一般化され、社会問題として扱われ始めたら政策弁論の可能性が高まります。また、一般化されずに体験から弁士個人の考え方や価値観の変化の話が進めば価値弁論の可能性が高まります。

 

ここからが問題です。政策弁論αの中には一般化したものの解決策を提示しないもの、もしくは、体験の一般化をしないままに解決策を提示するものが存在します。

 

とりあえず体験の一般化をしたものの解決策を示さない政策弁論αとの差別化を図るために、価値弁論では体験の一般化をしないことが必要かと思われます。

というか、一般化する必要がないのです。人間は他者の体験を共感によって追体験することが可能です。というかこの共感を用いて説得するのが価値弁論なのです。聴衆自身が弁士の体験を自身に当てはめて考えてくれるわけですから、そこに無理に一般化することはリスクを増加させかねないと考えています。

 

さて、体験の一般化をしないままに解決策を提示する政策弁論αに関しては正直考える必要はないと思います。この場合は、むしろこの政策弁論αがおかしいのであって、体験の一般化をしないままに政策を提示する方がおかしいのと考えているので。。

 

政策弁論と違い、価値弁論はその主目的である考え方や価値観を伝えるという部分ではなく、いかに政策弁論と勘違いされないように立ち回るかが重要だ、ということです。

 

価値弁論を価値弁論たらしめる要素は弁士の体験の一般化をしない、というところにあると考えています。

 

 

以上の考えはあくまでも私個人のものなので、鵜呑みにはせず、各自で批判的に考えてみて下さい。

参考になれば幸いです。