13 國學院学長杯 (観戦)

弁論部4回生にもなって懲りずに弁論大会出場を考えている中、リハビリもかねて自分なりに弁論に向き合ってみようかなと思います。

 

 題材は2021年10月9日に行われた國學院学長杯。コロナ禍の中、限定的ではありますが対面で弁士が演台に立ち、質疑も行われた大会でした。昨年同様に対面で大会を開催してくださった國學院弁論部の皆様方には頭が上がりません。

やっぱり弁論大会は対面がいいですね。

 

 さて、さっそく第一弁士から順に見ていきますが、個人の感想や、弁論観による意見が多分に含まれていると思います。何か意見、文句、聞きたいこと、感想でも、何かあればコメントなりTwitterにDMするなりリプしてください。

 

※弁論に接したときの評価は人それぞれです。僕は人よりもかなり厳しめに見てる節はあるので、弁士や弁論の良さを十分にこのブログでは抽出できていないと思います。

あくまで、僕ならこうするとか、ここにひっかかる、みたいなのが中心なので、まずは動画等で、弁論に直に触れていただきたいです。

 

 

第一弁士 岩崎航大弁士 「ニッポンのエネルギー戦略」 

脱炭素の為に水素エネルギーへの転換を訴えた。

 

まず、全体的に声調が穏やか。とても聞きやすい一方、眠くなる。フレーズの激しさもあまりなく、内容の起伏の少なさと相まって、音声が右から左へ流れていく。声はとても良いので、記憶に残らせるべき内容の部分でもっと激しい声調があればよいなと思う。

 

この弁論で特筆すべきは政策2点目のアジア圏水素経済圏なるものだと思う。

生産、流通、消費をパッケージして政府主導でやっていく。政策的理解はできるが、言ってることは面白いはずなのに何故か何度聞き返してもインパクトを感じられない。

ここが一番面白いはずなのに、声調態度は前半と何も変わってない。だからか、盛り上がりに欠ける。

時間配分も良くないと感じる。この弁論で勝ちに行くならこの部分にもっと重点をかけるべきだった。正直、政策1点目の金をかけるべきだなんてのは当たり前の話で、政策2に包含できたと思う。一人目の質疑者が聞くように、現実的な実現ラインや、イニシアチブをどうとっていくか、どうEUや中国、アメリカ、etc…に対して優位をとっていくのか、明るいビジョンをもっと訴えることができたと思う。

 

水素エネルギーなんて研究中な未知なものに手を出すのであれば、現状分析はそこそこに、解決性に時間をかけるべきだと考える。弁士は聴衆や審査員と違って、事前に調べられるのだから、質疑で多少つつかれようが、上から知識で殴れる訳で。いかに現実感をもって、かつ明るいビジョンを聴衆や審査員に描かせるかに時間を割けば、聴衆や審査員の記憶に残る弁論になったのかなと思う。

 

また、政策弁論あるあるではあるが、水素というテーマ、水素という政策を弁士が扱う理由が示されてないという問題点もあった。もちろん、示しにくいとは思うが、そこを何とかできなかったかなというのは思う。インターンして興味を持ったってのは弁論の導入としては弱いかなぁと。

 

 

第二弁士  藤岡祐弁士 「雨だれ毒を穿つ」

薬物問題とその対処について。

 

大半を占めている説明に関しては特に言うことが無い。個人の好みがある部分だろうし、何か言ってもしょうがないところだと思う。ただ、常識的な知識に多少色を付けたような現状分析をずっとされても、興味は持続しないのではないか。

 

ゲートキーパーになってほしいという政策(?)、訴えに関して。4つの要素をすれば他人を守れるというのは、まぁ理解した。がそれだけ。

 

僕は常々思っているのだが、これ弁士が何か言う必要があったのか??って思ってしまう弁論の典型ではないか。

薬物が悪いものであることも、友人がそういう状況になっていたら多少なり止めるように、遠ざけるようにすることは弁論会場にいる人であれば常識として身に着けているだろう。というか、この程度の話を知らない人間がこの会場にいると本気で思っているのだろうか。はっきり言って、当たり前の現状分析から、思ったよりも貧相な個人への呼びかけという政策にとどまったのは、面白みがないと思う。

 

僕なら、嗜好用大麻合法化で完全管理とかそういう方向でちゃんと政策詰めるとかするかなぁと。まぁテーマがテーマなので、そもそも新規性も何も難しいと思うんですけど、このテーマ選ぶのであれば、せめて政策で個を出すなりしてほしかった。

 

ただ、弁論全体としては(小さくではあるが)まとまっていたと思う。内容選択自体の改善はできたと思うものの、この内容を選んだうえでの出来は良かったと思う。

他のテーマで再挑戦した際は、是非、一歩、大きく踏み出てほしい。

 

 

第三弁士 井出凛太郎弁士 「愛と正義を否定する」

(名字が同じだけあって個人的に関心があります)

演題の時点で好きです。センスがあると思いました。

 

全体を通して声調がとても良い。聞きやすいし、速度も良い。上手いなと思った。

導入の掴みから、体験の一般化で大きな意識に持っていく手法のお手本として、特に弁論の冒頭部分は大いに参考にしていきたい。

 

合理的配慮に関して。

配慮が自己満足の手段になってるという弁士の危惧は理解できる。

24時間テレビの批判も個人的にすごくわかる。(24時間テレビがそもそも障がいを持つ人に対して配慮をしようだとか、そんなこと考えてるとは微塵も思えませんが)

他者の意向を無視した、「一方的な」愛と正義を否定しているという論旨は明快。

 

なだけに、なんで対話というところに着地してしまったんだという思いが消えない。合理的配慮のための心の在り方として、純粋な当事者の意見を尊重したものであるべき。だからなんで対話なんですか???

対等な立場で主張し、話し合う、そんな社会を目指すのはよくわかる。けれども、被配慮側の当事者の意識を100%取り入れるのであればそれは対話ではなく、主従であり上下である。果たして対話なのか僕は懐疑的です。

これは僕が懐疑的なだけであって、実際には質問者の中には共感した、みたいな人もいたので、諸説あると思う。

 

 

対話をするという提言で、「愛と正義を否定する」という演題と弁論の主旨との関係性が一気に曖昧になった。合理的配慮のための対話、定義付けはされていないもののこれが愛や正義だと普通は思うだろう。24時間テレビのような「一方的な」愛と正義を否定したところまでは良かったので、なんとかしてここを解消したい。

 

簡単な話、合理的配慮の為の対話を愛と正義以外の言葉で置き換えたい。そもそも、正義は一方的なものだし、愛も一方的なものだと言い張ることもできなくはない。(相思相愛は相愛だから一方的じゃないだけ、単愛は一方的やん、みたいに)

愛と正義それ自体を24時間テレビのメタファーとして、また一方的なものとして否定しながら、対話をうまいこと愛と正義に対応するもので言い表せたらすごくカッコよく締まると思った。わからんけど、今までの一方的な配慮から一歩抜け出す勇気、対話の為に話しかける勇気、みたいな感じで愛と正義じゃなくてこれは勇気なんだ!みたいな?

(完全にアンパンマンのノリです。こういうのセンスないので。)

 

弁論の最後の締めくくり、せっかくなら「だから私は、愛と正義を否定する!!」とか僕なら言いたくなっちゃうので。

 

 

ともかく、題材選びから、導入含めて、論旨は明快なうえ、声調も良く、わかりやすかった。凄い!!!

今回で弁論を聞くのは2回目だと思うけれど個人的に期待しているので、是非今後も弁論やってほしいなと思います。

 

(以下は超個人的な過激な意見です)

ぶっちゃけ、配慮する人間てよほど清らかでもなければ、社会的要請によって仕方なく、したくもない配慮をしてるとか、それこそ弁論中にも言ってるような、押し付けの自己満足のマスターベーション的配慮の方が現状殆どだし、そこに当事者意識が欠けているとさらに文句言われるなら、触れぬ神にたたりなし。何もしないってのが一番無難な選択肢になると思ってます。

だって対話めんどくさくない?わざわざ配慮する側の人間が、なんで配慮される側にお伺いしなきゃいけないのって思うので。

配慮を施しというのは性根が腐っているかもしれないが、人間、施しを受け続けるとそれが当たり前になり、もっとよこせと言うものだ。要は何かやってほしいけれど、してほしくないことはするな。俺の話を聞け。もっと配慮しろってことじゃないんですかね。

僕はそこまでお人よしではないので、そんなこと言われたら無視するなって思うので。

配慮される側が快適に配慮される環境を作り出すことはできるかもしれないが、その分配慮する側の人間にとってやり辛い環境が待っていそうでならない。そうなった時、最終的に困るのはどちらなんでしょうかね。

 

 

第四弁士 木村荘太弁士 「夢から醒めよ、超特急」

(※弁士がマイク付け忘れ(?)か何かでとても動画では聞き取りづらく、正確に理解できてないかもしれません。)

始めに、僕は鉄道に関してはオタクどころか、からっきし知識がないど素人です。詳しい人が聞いての感想ではないので、原稿の中で示された情報と若干の常識ともいえる知識で判断してます。

 

自分なりに整理してみると、

1,弁論の目的は新幹線の計画路線見直しと並行在来線の維持

2,新幹線による代替は、住民や在来線をないがしろにしてしまう

3,対策としてスーパー特急で在来線を廃線にせずに高速旅客輸送を実現

4,上下分離でJRを在来線経営に追加して地方自治体の負担を緩和

 

大まかにこんな弁論構成だったと理解した。

まず、弁論内容以外に感じたことについて。マイクの付け忘れはしょうがない。緊張していればミスもある。マイクがついてなかったとはいえ、声調全般は聞き取りやすく、間の取り方も良かった。強調したい部分もはっきりしていたし、良く仕上がっていた。

 

弁論の内容はともかく、この新幹線や在来線についてのテーマを木村弁士がなんで行っているかは弁論中では全く伺えなかった。別に何が何でも自己言及性だの何だのを入れればいいというわけではないけれど、この原稿は木村弁士に紐づけられているように感じなかった。社会問題として取り上げているにすぎず、悪く言えば弁士に紐づいていないからこそ興味が持続しない。最初から新幹線や在来線に興味がある人ならば聞く気は起きるかもしれないが、そうでない人には何がなんだかわからない。

個人的な考えだが、弁論の場において、聴衆や審査員に最初からあるのは弁士への関心のみであって、弁士が話したいテーマではない。弁士個人と弁論テーマを紐づけるという意味での事故言及性は、弁士への関心を、テーマへの関心へとスムーズに誘導するための効果的な手法である。

聴衆や審査員は弁論大会に来ている以上、弁士の話を聞く義務があるとは思う一方で、弁士側からも、聞かせる努力、興味を持続させる努力は怠るべきではないだろうし、その結果が魅力的な弁論として評価されることも多かろう。入賞や優勝にも結びつくだろうし、弁論を通じての説得技術向上という観点でも、意識すべきことだと考える。

 

 

弁論の中身に関して。

正直、鉄道に関して知識がないので何とも言えないが、気になったのは「地元の人々をないがしろにしてしまってよいのだろうか。」というような声かけが繰り返されたことだ。

弁士はさも当然、というか説明不要という感じで地元の人々が大事だとしきりに言っていたけど、正直素直に受け入れられない。

だって大半、下手すりゃほとんど赤字路線なんでしょって。お金も労力もかからずに救えるのならまだしも、赤字垂れ流してなお維持する必要性をもっと訴えるべきだったと思う。人口集中、高齢化、地方衰退。こんな状況で社会インフラの一部だからというだけでそもそも救うべきなのか疑問視されてもおかしくない。

質疑に対しても、新幹線利用者よりも地元の人が優先されるべきだと考えると言っていたけれど、何故そうなるのか説明はしていない。弁士の中では地元の人々が大事なのだろうが、その価値観は他の全てを上回るほど優先されてしかるべき考え方なのか。

仮にそうだとしたらあちこちにある在来線は廃線になってないだろうし、現実は過酷である。理想論は掲げるだけでは意味がないし、誰かと共有できなきゃ意味がない。この弁論では何よりも、この地元民を救いたい!という意思、誰一人取り残さないという強い思いとその根拠を聴衆に示して理解、納得してもらわなければ、その理念達成に向けた解決策に賛同し辛い。一番大事な問題意識を、みんなそう思うよね?みたいな感じで流してしまった気がする。

 

政策に関しての評価は僕にはできません。これが現実に有効なのかとか、今どんな取り組みがあるのかとか全く知らないし興味もなかったので。

在来線で超特急を走らせて高速化することが既存のインフラで可能ならばいいとは思うけど、追加改修とかどれくらいするのかわからんし。ただ、個人的には新幹線で乗り換えなしで行けたら便利だなぁって思っちゃうので、わざわざ在来線に乗り換えるのめんどくさいです。新幹線が延伸するならそっちの方が旅行する身では楽。

あと、この政策で赤字路線が黒字化するのかは気になりました。新幹線と在来線で別会計だと在来線が今よりもっとやばくなるのはわかるのだけれど、この計画で黒字化するのか、もしくはもっと赤字になるのかわからないから評価できない。黒字になるならそりゃやり得だけど、余計に赤字になるくらいなら地方自治体の負担も大きくなるし、何よりJRが本当に入ってきてくれるのかわかんない。

鉄道知識があればこの辺も違和感を覚えることなく理解していけるのかもしれないけれど、もうちょっと丁寧に説明してくれるとイメージしやすいかなって思いました。

 

次はマイクつけて、木村弁士の内面にもっと踏み入った弁論でのリベンジを期待してます!!

 

 

第五弁士 草部萌弁士 「濡れぬ先の傘」

このブログは別に褒めるためにやってるわけではないので素直に感想を書きます。

正直、聞いていて関心が持続しませんでした。何回も聞き直したけど。

 

とりあえず2点ほど原因があると思っていて、まずは「~について説明します。」という文体の乱用。政策弁論をやるうえで、現行の政策であったりその問題点を指摘することはよくあることだが、これは聴衆に説明しますと言ってするものなのか。

今回の弁論だと虐待に関しての聴衆の関心が高まったとして、話の流れで自然に、今政府が何やっているのか知りたい・聞きたい、今やっていることがなんで駄目なのか知りたい・聞きたい、といった感じで聴衆が弁論を聞く中で自然と考えて情報を欲するところに、ドンピシャでその情報を置きに行きたい。政策弁論の構成として必要な要素や情報だとしても、それをいかに聴衆が自然と興味を持つように思考誘導するかが弁論で問われる技術の一つだと思ってます。この弁論は、そういう意味では純粋に虐待に関しての、まさに説明を受けているだけであって、弁論、というか説得する気はあるのか?という感じです。誰に何を説得してるんですかね。虐待がダメなことくらいみんな知ってますし。

 

次に、原稿の文語体の徹底の裏目。要はずっと「です・ます」調なんですよこの弁論。原稿は文字で書くので文語体になるのはわかるんですが、実際には言葉にして声に出して伝える文章なので、原稿段階から口語体を意識して、意図的に文末を使い分ける必要があると思ってます。体言止めや、強めの語気、台詞、引用、声かけ、疑問形。文末のバリエーションは時に緊張感を、時に適切な間を、時にそれ自体が離れていく関心を引き戻す力があると思ってます。自分が考えたことを人に説明してるときの声を録音して書き起こす、とかやってみると口語体の原稿がわかりやすく現れると思います。是非自分の語尾で話してほしいです。

 

 

政策に関してはこれ実現できるのかって思うことだらけでしたね。

そもそも、北欧の社会福祉国家でできたからと言って日本の規模でできるのかも不明。しかも最初から年間45件しかないケースがが0件にって言ってますけど、日本は45件で現状済んでるんですかね。人口規模の違い加味してもこんな最初から少なくはなさそうですけど。てか少ないならやる意味小さいしね。

面談の回数増やせば信頼関係ができるのかも曖昧。そもそもそんな回数面談できる家庭が本当に対象なんですかね。自治体側も負担やばそう。

それに、虐待する家庭はそれを隠そうとするって分析を弁論中にしていたけれど、この性質が変わらないのであれば政策の効用は低そうですけどね。

 

相談員の給料とか、人員不足の問題とか、その他もろもろ、どうにしなきゃいけない問題が山積みなのに、解決しなければならないの価値観のごり押しじゃ説得はされない。

何としても用意しなきゃいけないなら、その何としてもってところのビジョンを見せてほしかった。具体的な解決策が思いついていないのであれば素直にそう言うべきだし、これは大学生だからとか言って甘えられる部分ではない。

政策弁論において、予算はどうするのかとか、本当にできるのかとか、そういう部分に突っ込まれるのは当然想定できるであろうし、完璧に国会で予算が通るレベルの解答を用意できるわけがない。ただ、見込みや概算すらしないでいいわけではないし、それをしないのは怠慢か無責任な理想の押し付けだと思う。

リベンジに期待。

 

 

 

第六弁士 粕尾瑞規 「誰一人取り残さない」

すごく良い。声調含め綺麗にまとまってる。

導入から始まり、寒冷地方にフォーカスする理由まで違和感なく進行した。

弁士自身の将来性も含んで弁論としての完成度はとても高いと思う。演題の弁論中での活用も効果的であると思うし、総合的に見ても納得の入賞である。おめでとう。

(というかこれ優勝だと思ってました。)

 

褒めてばっかでもしょうがないのであえて意地悪に、斜に構えてみたいと思う。

今回の弁論中での弁士の言うところの「誰一人取り残さない」というのは、新たな環境税増税という政策によって取り残される人が増えることを防ぐものである。

弁論中では既存の税体制であっても、全体で見ても15%が燃料貧困、シングルマザー家庭で35%や貧困家庭では63%で燃料貧困に陥っていると述べていた。なるほど既存の税率でも燃料貧困という形で取り残されている人がいるらしいが、この既存の税率自体の問題点は放置するのだろうか。

既存のエネルギー諸税を整理して、炭素税として整理するというのは、税収の用途を環境対策に充てることであって、家計の税負担自体が減るわけではない。日本の立場は守れるかもしれないが、家計も守れると言い切ってしまっているのは違和感がある。

既存の燃料貧困という、既に取り残してしまっている人々に対しての言及は弁論中では現状分析以上のものはなかったが、ここは弁士の理念として放置していい部分ではなさそうではある。

ここまで弁論中で求めるのは酷であろうし、時間的、文量的制限はあるだろうが、この点に関しての質疑等もなかったので弁士の考えが何かあれば気になるところではある。

 

繰り返しにはなるが、視点は素晴らしいし、切り口も良い。弁論としての完成度も高い。是非とも公務員試験頑張ってください。

 

 

 

第七弁士 大畑智弁士 「神隠し」

直接の知り合い、かつ原稿作成にほんの少し関わっていたので、突っ込んで書いてみます。

途中で原稿読みに詰まっていた箇所があったけど、これは純粋に練習不足。普段の大畑ならしないミス。原稿作成がギリギリになった弊害。とはいえ声調全体は流石4年。

 

導入から含めて大まかなストーリは良かった。政策の評価は後述するとして、失笑だろうと含み笑いだろうとなんであれ、聴衆が思わず反応してしまうほどにインパクトがあったのは間違いない。他にも、「脳が忘れても、体が覚えている」という台詞も弁論全体を端的に表しつつ印象に残り、聴衆の反応も得た。こういうことが随所でできるのは流石であるし、参考にしたい。

 

原稿自体の出来はよかったが、途中のBluetoothの話は無駄に細かく、いらなかったと思う。正直、既存の対策では無理ってのはGPSの話で網羅できている。質疑でくれば返せるようにはすべきだが、弁論中で時間を割くべき事柄ではないと思う。

 

僕なら、演台から千と千尋の神隠しを持ってきて、帰るのに必要なのは自分の名前を忘れないこと、でも高齢者・認知症で脳が忘れてしまう。でも大丈夫、脳が忘れても体が名前を憶えてる。みたいな感じで名前の重要性をジブリ映画を参照しちゃうかもしれない。

 

政策に関してはマイクロチップってのは良いと思う。そこにマイナンバーを使うのも良いと思う。DNA情報や指紋情報を国家が国民全員分取得して情報管理する方がよっぽど怖いし、あくまでも名前と住所さえわかればよいのだから、マイナンバーという話はもっとも。そうした個人情報と肉体を結びつけるのに現実的かつ確実なのがマイクロチップという展開をもっと素直に打ち出せば、容易に反論できない気はする。対案はそう簡単に思いつかないし、それによって解決できる問題が現状分析で既に示してある。

 

ただ、だからこそマイクロチップ埋め込みという行為そのものに抵抗を感じる事態への配慮が原稿中でどうにかできればと思った。北欧での実践だけでは不安がぬぐえないだろう。

 

 

第八弁士 新谷美華弁士 「正義という名の暴力」

優勝弁論。

どこかで聞いたことがある内容なのだが気のせいだろうか。僕だけじゃないと思う。

 

(僕は正直、この弁論が優勝なのが納得できない。第六弁士の方が完成度として上じゃない?って)

 

弁士自身の家族が加害者本人であるようでもないが、なんでこの弁論をわざわざ新谷弁士はしたかったのであろうか。冒頭でいきなり声を大きくして叫べばどんなテーマにでも関心を持ってくれるとでも思っているのであろうか。加害者家族を救いたいという意思はわかったが、それだけである。

 

弁論の中身として。NPO法人とかの既存の団体を活用するのは良いと思う。バッシングはおいておいて、加害者家族への支援が重要だというのは理解できるし、そこは誰も否定しないだろう。

ただ、利便性の拡充と周知に留まる訴えは、聴衆や審査員の予想を裏切らない、有体に言えば平凡な一手。勝手にやってればいいし、わざわざ言うことじゃない。目新しいことが常に正義ではないかもしれないが、はっきり言えば面白くない。どこにも個性がない。そう感じてしまう。

 

だからこそ、この弁論では政策ではなく、バッシングという行為とその抑制に焦点が過度に集まってしまう。本来弁士がもっと意識して欲しいのは上記の政策であり、直接的な加害者家族救済の手段であるはずなのに。しかも、何やらよくわからないことを言っている。「加害者家族は加害者ではない」

 

 

前提として。そもそも、聞かなくても加害者家族は加害者じゃないってのは当たり前では?

加害者家族へのバッシングは加害者家族は加害者だからバッシングしているのではなく、加害者家族であるが故にバッシングしている。

それに、加害者ではないからバッシングしてはいけないという理論は、まるで加害者はバッシングしていいみたいにも聞こえる。バッシング自体がダメなのではなく、加害者でないから加害者家族にバッシングしてはいけないという理論展開は弁士が望んでいることなのだろうか。

 

実態として、加害者家族と加害者との関係次第で、加害者家族にも責任の一端がある場合もあるだろう。一人目の質疑者への解答でも、犯罪は複合的要因があり、家族の責任だけが追及されるのはおかしいと言っている。じゃあ、家族も社会も制度も悪いと言って家族にバッシングするのはありなのか??そうじゃないでしょ。

自責の念に囚われるかどうかはバッシングに関係ないというのは理解できるが、バッシングに関係なく自責の念に囚われているのであれば、バッシングはある意味で正当なのではないか。責任を感じている人間に責任を追及することはバッシングではない。過剰なものは犯罪として処罰すべきだが、根拠のない非難ではないでしょうに。

 

氏名変更の応答含め、国民感情という漠然としたものが依然としてこの弁論を妨げていることは弁士も自覚していることだが、一般論として、犯罪者やその家族とそうでない人々を比べたら、やはり犯罪者やその家族を避ける傾向があるのは仕方がない感情だと思う。

それこそ弁士がしきりに言っていたアメリカなんかでは、例えば性犯罪者の名前や住所が調べれば出てきたり、どの地区にどれくらいいるのか一目でわかるようなサイトがあったりする。こうやって、加害者本人を過度に意識して避けられるからこそ加害者家族への風当たりが弱まるような制度設計があるわけで、そんなものがないままに、加害者とその家族への風当たりを弱めてほしいと言われても無理なものは無理である。

正直僕だって、結婚相手が犯罪者家族かそうでない家族か選べるのであれば後者を選ぶだろうし、好き好んでリスクをとる人などいない。できれば遠ざけたいし、引っ越ししてくれるのなら本望だという人が少なくないだろう。

 

根深い感情問題の原因を、加害者家族を加害者だと勘違いしてることだと、まさに勘違いしているのであろうか。そんなわけがない。理屈ではどうにもできない感情の問題を解決したいのであれば、その感情の原因にまじめに向き合うべき。本当にそんな勘違いが原因だと思っているのか。弁士の周囲の人間はこの問題意識を止めなかったのだろうか。弁士の周囲の人間の責任を考えるのはまるで加害者家族の責任を問うているようで心苦しいが、自分のもった問題意識を、これが原因に違いないと安易に思い込んで突っ走ると、聴衆や審査員は置いてけぼりになるし、そうじゃないでしょという感想しか残らない。少なくとも僕は、そう感じた。