14 桜門杯第二弁士 田村弁士の弁論について

せっかくなので一つの弁論について特に取り上げて自分なりの意見を書いてみよう。

※本人には許可を取ってます。

 

 

題材は2021年桜門杯第二弁士、田村海渡弁士の弁論である。

 

声調態度について。

全体的に原稿読みで詰まっている部分が多い。これは練習不足によるものもあるだろうが、原稿単位で読みづらい箇所があるようにも見受けられる。

だが、こんなこと言われなくてもわかっているだろうし、言ってもしょうがないので中身について。

 

 

弁論内容を要約すれば以下のようになる。

 

①我々学生は社会に出れば人間的な生活を送れなくなるだろう。

②非人間的な扱いを受ける日本人労働者を救いたい。

③実際、データでは諸外国に比べて労働時間や仕事のストレスが高い。隠れている労働時間もあるだろう。こうした要因もあり、過労死が起こっている。

④この問題点は、企業が固定給で労働者を雇っているために、労働時間の裁量権が企業にあるからだ。企業はこれを無理にでも使おうとする。

⑤父の例でも、無意味な仕事による残業の発生があった。

⑥終身雇用の日本では、これに労働者が反対することはできない。

⑦こうした状況で、BIがあれば労働者は企業から逃げ出せるし、反対しやすくなる。

⑧パソコンの時間を管理すれば、国が労働時間を管理できて、長時間労働が防げるのではないか。

 

 

まぁ、言わんとすることはわかる。わかるのだが…

あまりにも突っ込みどころが多すぎてどこから手を付けていいのかわからない…

 

内容を要約したうえで、大別して8つのブロックに分けて順に自分なりの問題点や改善点を指摘していきたい。

 

①に関して

そもそも、弁士は大学1年生である。社会に出て働いたことなどおよそないだろう。聴衆に向けて、「学生諸君、君たちは…」と語りだしたのは良いけれど、良くて同級生、悪けりゃ後輩の学年である大学1年生に、社会に出て働いた際の辛さを語られなきゃいけないんだ?という感想が自然に出てくるのではないか。

というか、今現に働いている方々に対して、人間じゃないだの消耗品だの言って、社会人審査員を敵に回す言動であることは間違いない。身の程を弁えろとまでは言わないが、身の丈をはるかに超えた立場から、聴衆に向かって、現実を教えてやるぞと言わんばかりの上から目線な導入になっていると思ってしまった。これがわざと反感を買いたくて狙ってやっているのだとしたら以降で回収できているわけではないので作戦ミスであろうし、そうでないのであれば単なる導入失敗である。

実際の労働というものがいかに厳しいものなのかをただ説明したいのであれば、何も上から目線で語る必要はない。弁士自身も同じ目線に立てば良いだけだ。「私はこんな人間をやめたような生活をしたくない、消耗品になどなりたくない。諸君だって同じなはずだ」と、仲間意識をもって語り掛けるだけでも印象は違うはずだ。

 

もしくはバイト経験なりなんでもいいから社会経験を持ち出してもよかった。

父親の話を冒頭で持ってくるでもいい。ただ考えただけでない、想像ではない現実の労働をイメージさせるべきだと思う。

 

②に関して

とはいえ、問題意識として、「非人間的な扱いを受ける日本の労働者を人間へと回帰させる解決策を提示する」という弁論の目的が分かりやすく示されたのはとても良かった。

ここが簡潔でわかりやすいと、弁論全体が聞きやすい。

ただ、ここでは、長時間労働を解決するとも、日本の労働者を人間的な扱いにするとも言っていない。「日本の労働者を人間へと回帰させる」と言っているのだ。

弁論の目的を表す言葉は慎重に選ばなければならない。それに定義をはっきりさせなければならない。

まず、「人間へと回帰させる」とはどういうことなのだろうか。この先の弁論でもこの言葉が特段といり挙げられている個所は無いように思える。

強いて言うのであれば弁論の最後で、「これまで機械であった日本の労働者は、本来人間の持っていた自由と尊厳を取り戻し、人間へと回帰し、日本国はより自由で活気のある国家へと生まれ変わるのである。」という言い回しがある程度である。

 

そもそも、弁論の冒頭で学生諸君に向けて、自らのことを人間と言い切ることができるだろう、と言っている以上、この弁論では少なくとも学生時代は日本人は人間であるのだろう。それが社会人になったら人間でなくなり機械になっているのだとしたら、人間へと「回帰」するということは学生に戻ること、及び働く前の状態に戻ることであるはずだ。決して、働きながら人間になることではない。

「回帰」とは、一周してもとへ帰ること。めぐりかえること。くりかえすこと。である。人間へと回帰するという言葉を、人間として働くことだとするのであれば言葉の用法が間違っていると思う。

 

素直に、人間的に働けるようにする為の解決策の提示、とでも言っておけばよかった気はする。それに、せっかくかっこいい「回帰」という言葉を使うなら、弁論中でも意識的に多用すべきだし、最後に一回持ってくるだけではもう忘れている。

 

というか、人間的に働けるようにすることではないのかもしれない。もしかしたら労働自体が人間を機会にする直接の原因ととらえているのかもしれない。

BIなんて労働からの解放なんて側面すらあるのだけれど、目的とする世界が、労働しなくても良い社会なのか、人間的に労働する社会なのか。この言い回しでは判別できない。

原稿を通じてもわからないのだから、軸が定まっていないように感じるのだろう。

 

③に関して

所謂、現状分析とされている部分。概ね問題は無いように思うが、もっと簡潔にできたとは思う。情報量に対して文字数や時間を割きすぎているように思う。時間の差を割ってみる必要性も、時間とストレスを別個に紹介する必要もない気はする。時間は長いしストレスは多い。これならすぐいえる。

ただ、企業がデータを計上していな労働時間が存在するという指摘はこの弁論においては幸か不幸か重要である。無論、より現実の労働時間がデータよりも多いだろうという推測によって、現状の問題をより深刻に演出することはできるが、一方でこの企業の隠蔽体質は⑧での政策の実効性に直接影響している。

それに、この企業体質が日本固有のものであることの証明を弁士は特段しないままに、日本人の労働時間は他国の比にならないと言ってはいたが、ここは完全な憶測にすぎず、データは示されていない。一般に推測できる範疇を超えた憶測で問題を大きく見せようとするのは不誠実な態度であるし、仮にこれが事実だったとして、労働時間が長いことは既に説明しているのだから、リスクしかない。蛇足なように感じる。

 

こうした長時間労動が過労死の問題の一端であることは確かにそうだろう。実例でもわかることである。ここに関しては問題はない。

 

が、全体を通してとにかく長い。労働時間が長いことや、過労死の問題があること、その実例は多くの人が知るところである。わざわざ事例を細かく説明する必要性は感じられない。どうせなら過労者数のデータでも持ってきて全体像を示した方がまだよかった。

聴衆や審査員が全く知らないだろうという社会問題に関しての説明であれば時間をかけた分だけの理解度向上も期待できるだろうが、今回のテーマはむしろ、常識レベルの理解力が存在することを担保に、最低限度の説明で切り抜けてしまってよいケースだと考える。この弁論で大事なのは、過労死自殺事件の詳細な時間外労働の時間などではない。もっと大きな、巨大な政策が後に控えているのである。明確な配分ミスである。

 

 

④に関心

この弁論を聞いていて、それ本当??と引っかかる最大のポイントの一つである。

A.固定給で雇っているから中間管理職に労働者の時間の裁量権が与えられてる。

B.中間管理職の人間は時間裁量権を無理してでも最大限活用することが正しいと考える

C.だから中間管理職の人間は労働者が仕事が終わっても無駄な仕事で時間を長く使おうとする

 

これって本当??

これ弁士は何をもとにどう判断してそうなった??って思うんですけど。

根拠も何もなく、いきなりすごい勢いでとんでもないロジックがでてきた。しかも容易に受け入れられるものじゃない。

もっと言えば、ここだけ田村弁士の言葉ではない気がする。借りてきたような、変な感じ。

逆に言えば、わかんないものを無理に自分なりに説明しようとして意味の分からない焼肉の例を言ってる感じ。ここで聴衆や審査員は全員頭が真っ白になってると思う。

 

正直、この原稿で一番個性が出てるのはここだと思う。この分析は正直言って僕は理解できないけど、ここだけ取り出して丸々弁論やってほしいレベル。

 

マジで理解できないし、こんなこと言ってる論文があるなら是非見てみたいんですけど。最大限ここを尊重して、このロジックが正しいとして以降の原稿を評価したいと思います。

 

ただ、これが問題だとして、この弁論で中間管理職の裁量権の問題が何ら後半で触れることなく終わっているのは謎である。ここ解決せずに問題が解消されるなら原因ではないでしょうに。

 

⑤に関して

まぁこれはなんというか。直接の話を知らないので何とも言えないが、入れたければ入れても良いと思う。ただ、もう少し短くできた感じはする。

 

⑥に関して

まず、日本の解雇規制はそんな簡単に人をクビにできるほど甘くないし、中間管理職が直ちにクビにできるほどの人事権を持ってるんですかね…。

労働組合だってあるし、僕も働いたことがあるわけではないけれど、それにしても現実社会を誤解しすぎていると思う。中間管理職をそんなに悪者にしたいのかわからないけれど、序盤の現状分析であれほど丁寧にやっていたのに、ここにきて書き手が変わったのかと思うくらいに雑な論理展開の連続。弁士乱心。何があったのか心配になってさえ来る。

一番の問題は、言ってることが正しいかどうかの裏打ちが無いこと。一見、おかしいと思える論調であっても、すぐにそれを裏打ちするデータがあれば聴衆の思考は追いついてこれるが、今回はそれらが全くない。故にこの原因分析は完全に聴衆を置いてけぼりにしている。

長時間労働に加えて、中間管理職によるさらなる労働、生殺与奪の権を握られていることが原因だというところに落ち着けたいのは理解できる。が、雑すぎてこの時点までで既に聴衆は疑問符が大量に並んでいるはずだ。

政策弁では、往々にして現状分析、原因分析までは理解できるが、政策が解決策として機能するかが疑問視され、判断され、糾弾されるものである。

それなのに、原因分析の時点で疑問符を持たれてしまっては政策も何もあったものではない。

 

 

⑦に関して

ベーシックインカム(BI)を導入することに関して。はっきり言って弁論中では何の脈略もなく唐突に出てきた感がぬぐえない。

弁士の考えを推察してみる。原因分析として、企業に生殺与奪の権を握られている状況があり、これにより企業は従来の理不尽に絶えざるを得なく、状況改善も難しい。しかし、企業に頼らずに生活できるようにすることができれば、労働者は企業に対抗することや逃げることができる。企業から生殺与奪の権を取り上げる具体的な政策のとして、BIを行う。という腹だろう。

 

最初にBIと言ってからこのロジックの説明をしても、聴衆は違和感を解消できないだろう。必然性を示してからBIを言い出す方がまだよかった。BIといった瞬間のインパクトは大きかろうが、これは、「これなら解決できそう」というような肯定的な反応というより、「何言ってんだこいつは」という否定的なものである。原因分析のところから既に弁士の考えと聴衆の考えには乖離が起きていて、このBIという政策を唐突に出したせいで、この乖離は致命的なものになってしまった。

 

ただ、このロジック自体はわからんくはない。わからんくはないが、だからBIをやろうとはやっぱりならない。BIなんてのはそれ一本で弁論やっても収まらないくらいに多くの論点を抱えている構想なのに、それをただ、国民一人一人に、生活できる程度のお金を一律に国から給付するという制度、という説明だけで終わらせてしまうのは流石に問題がある。

それに、この原因を解決する手段がBI以外に存在しないのかどうかも言及されていない。わからないけれど、ここまで雑に言っていいのなら、みんな起業して上に立とうとか、社会主義とか、労働組合の支援とか、転職支援とか、ブラック企業グランプリ、裁量労働制の徹底、パっと思いつくだけでもたくさん出てくる。BIにこだわりがあるのかはわからないが、BIで解決できるのかどうかも、何故BIなのかも全く分からない。

政策弁の命でもある政策の説明があまりにも雑。

 

 

⑧に関して

BIとは一転して、独自性というか、新規性というか。弁士の色が出ている部分である。

言いたいことはわかる。が、これもまた説明が雑である。

 

まずは大前提として。パソコンのついている時間を労働時間として見做すというのは本当に大丈夫なんだろうか。じゃあ、パソコンは閉じてプリントアウトした紙で会議をやって、修正は朝一でやれ、みたいな事になりませんか?

逆に職種によってはずっとパソコンを付けっぱなしでいなきゃいけないから意味が無かったりしませんかね。そもそもパソコンを使わない仕事はどうするんですかね。

それに、稼働時間を通知させて国が管理するとは言っても、どこの機関が、何を根拠に、どうやって長時間労働を止めるんですかね。とにかく説明が雑としか言いようがない。

 

さらに、③でも述べたことだが、弁士は現在の企業がデータを出し渋るといった、隠蔽体質があることを指摘している。この性質がプラン後も変わらないのであれば、登録していないパソコンを用意して終わりなきがしてならない。

現状分析では企業は隠蔽するという立場なのに、政策では急におとなしく従う存在だとするのはあまりにも都合よく扱いすぎである。

 

 

 

 

 

全体総括

とにかく政策が雑。時間配分が間違っていると思う。

この弁論の原型を変えずにやるとするのであれば、導入を簡素にして削り、現状分析を大幅に削る。

もしくは父の例を導入に持ってくる。現状分析はどちらにせよ削る。

④⑥の内容は精査しなおし。このままでいくとしても肉の例や生殺与奪の権、なんかの新規説明していない部分は片っ端から省いて全力でロジックを詰める。

削減した文字数で政策を詰めるが、正直両方を十分に説明できる文字数が確保できるとは思えない。

選択するのはどちらでもいいが、どちらにせよ、丁寧な説明と、その政策の必然性を十分に示し、その政策が十分に問題を解決するビジョンを示す。

 

ともかく、ちゃんと説明しなきゃいけないことが多すぎる弁論であり、文字数を無駄に使っている場合ではない。

ある意味で、遊びの余地がないガチガチな政策弁論に仕立て上げるための自分なりの添削案だが、こうして見てみると、弁士は案外、ガチガチな政策弁論をやりたいというよりも、どこか自分の言葉を入れた遊びの余地がある弁論がしたいのかなとも思ってしまう。

 

演題はエヴァンゲリオン生殺与奪の権鬼滅の刃ラピュタに焼肉食べ放題。何の必然性もなければ、それ以降に回収されるわけではないネタの数々。

こんなものはただ闇雲に数打てばいいというわけではないと僕は思うけれど、こうした随所にちりばめた政策弁論とは直接関係ない部分で聴衆とのコミュニケーションを取りたいという弁士の思いがあるのであれば、添削の形は全く変わると思う。

こうした、弁論の中での遊びを含めた原稿を用意するのであれば、そもそも話さなければならなないテーマを厳選すべきであると思う。

労働問題を取り上げるとしても、最低限の構成要素で完結させて、政策弁としてコンパクトに完成度高くまとめたものに、違和感ない形で随所にネタを入れる形式になるだろう。

その場合は、

④⑤⑥を丸々切り捨てて、政策は⑧で終わらせるのだろうか。

③のみで長時間労働を原因にしてしまって、そこに直接⑧をあてに行く。⑧の新規性を政策弁の価値として押し付けつつ、その分文字数を割いていく。

ここまで内容を厳選しないと、ネタを入れていくことは難しいと思う。

 

 

あくまで自分ならこうするというものでしかないが、参考になればと思う。

弁論に正解はないので、自分なりに納得のいく弁論を目指してほしい。

 

何かコメントあれば是非に。