14 桜門杯第二弁士 田村弁士の弁論について

せっかくなので一つの弁論について特に取り上げて自分なりの意見を書いてみよう。

※本人には許可を取ってます。

 

 

題材は2021年桜門杯第二弁士、田村海渡弁士の弁論である。

 

声調態度について。

全体的に原稿読みで詰まっている部分が多い。これは練習不足によるものもあるだろうが、原稿単位で読みづらい箇所があるようにも見受けられる。

だが、こんなこと言われなくてもわかっているだろうし、言ってもしょうがないので中身について。

 

 

弁論内容を要約すれば以下のようになる。

 

①我々学生は社会に出れば人間的な生活を送れなくなるだろう。

②非人間的な扱いを受ける日本人労働者を救いたい。

③実際、データでは諸外国に比べて労働時間や仕事のストレスが高い。隠れている労働時間もあるだろう。こうした要因もあり、過労死が起こっている。

④この問題点は、企業が固定給で労働者を雇っているために、労働時間の裁量権が企業にあるからだ。企業はこれを無理にでも使おうとする。

⑤父の例でも、無意味な仕事による残業の発生があった。

⑥終身雇用の日本では、これに労働者が反対することはできない。

⑦こうした状況で、BIがあれば労働者は企業から逃げ出せるし、反対しやすくなる。

⑧パソコンの時間を管理すれば、国が労働時間を管理できて、長時間労働が防げるのではないか。

 

 

まぁ、言わんとすることはわかる。わかるのだが…

あまりにも突っ込みどころが多すぎてどこから手を付けていいのかわからない…

 

内容を要約したうえで、大別して8つのブロックに分けて順に自分なりの問題点や改善点を指摘していきたい。

 

①に関して

そもそも、弁士は大学1年生である。社会に出て働いたことなどおよそないだろう。聴衆に向けて、「学生諸君、君たちは…」と語りだしたのは良いけれど、良くて同級生、悪けりゃ後輩の学年である大学1年生に、社会に出て働いた際の辛さを語られなきゃいけないんだ?という感想が自然に出てくるのではないか。

というか、今現に働いている方々に対して、人間じゃないだの消耗品だの言って、社会人審査員を敵に回す言動であることは間違いない。身の程を弁えろとまでは言わないが、身の丈をはるかに超えた立場から、聴衆に向かって、現実を教えてやるぞと言わんばかりの上から目線な導入になっていると思ってしまった。これがわざと反感を買いたくて狙ってやっているのだとしたら以降で回収できているわけではないので作戦ミスであろうし、そうでないのであれば単なる導入失敗である。

実際の労働というものがいかに厳しいものなのかをただ説明したいのであれば、何も上から目線で語る必要はない。弁士自身も同じ目線に立てば良いだけだ。「私はこんな人間をやめたような生活をしたくない、消耗品になどなりたくない。諸君だって同じなはずだ」と、仲間意識をもって語り掛けるだけでも印象は違うはずだ。

 

もしくはバイト経験なりなんでもいいから社会経験を持ち出してもよかった。

父親の話を冒頭で持ってくるでもいい。ただ考えただけでない、想像ではない現実の労働をイメージさせるべきだと思う。

 

②に関して

とはいえ、問題意識として、「非人間的な扱いを受ける日本の労働者を人間へと回帰させる解決策を提示する」という弁論の目的が分かりやすく示されたのはとても良かった。

ここが簡潔でわかりやすいと、弁論全体が聞きやすい。

ただ、ここでは、長時間労働を解決するとも、日本の労働者を人間的な扱いにするとも言っていない。「日本の労働者を人間へと回帰させる」と言っているのだ。

弁論の目的を表す言葉は慎重に選ばなければならない。それに定義をはっきりさせなければならない。

まず、「人間へと回帰させる」とはどういうことなのだろうか。この先の弁論でもこの言葉が特段といり挙げられている個所は無いように思える。

強いて言うのであれば弁論の最後で、「これまで機械であった日本の労働者は、本来人間の持っていた自由と尊厳を取り戻し、人間へと回帰し、日本国はより自由で活気のある国家へと生まれ変わるのである。」という言い回しがある程度である。

 

そもそも、弁論の冒頭で学生諸君に向けて、自らのことを人間と言い切ることができるだろう、と言っている以上、この弁論では少なくとも学生時代は日本人は人間であるのだろう。それが社会人になったら人間でなくなり機械になっているのだとしたら、人間へと「回帰」するということは学生に戻ること、及び働く前の状態に戻ることであるはずだ。決して、働きながら人間になることではない。

「回帰」とは、一周してもとへ帰ること。めぐりかえること。くりかえすこと。である。人間へと回帰するという言葉を、人間として働くことだとするのであれば言葉の用法が間違っていると思う。

 

素直に、人間的に働けるようにする為の解決策の提示、とでも言っておけばよかった気はする。それに、せっかくかっこいい「回帰」という言葉を使うなら、弁論中でも意識的に多用すべきだし、最後に一回持ってくるだけではもう忘れている。

 

というか、人間的に働けるようにすることではないのかもしれない。もしかしたら労働自体が人間を機会にする直接の原因ととらえているのかもしれない。

BIなんて労働からの解放なんて側面すらあるのだけれど、目的とする世界が、労働しなくても良い社会なのか、人間的に労働する社会なのか。この言い回しでは判別できない。

原稿を通じてもわからないのだから、軸が定まっていないように感じるのだろう。

 

③に関して

所謂、現状分析とされている部分。概ね問題は無いように思うが、もっと簡潔にできたとは思う。情報量に対して文字数や時間を割きすぎているように思う。時間の差を割ってみる必要性も、時間とストレスを別個に紹介する必要もない気はする。時間は長いしストレスは多い。これならすぐいえる。

ただ、企業がデータを計上していな労働時間が存在するという指摘はこの弁論においては幸か不幸か重要である。無論、より現実の労働時間がデータよりも多いだろうという推測によって、現状の問題をより深刻に演出することはできるが、一方でこの企業の隠蔽体質は⑧での政策の実効性に直接影響している。

それに、この企業体質が日本固有のものであることの証明を弁士は特段しないままに、日本人の労働時間は他国の比にならないと言ってはいたが、ここは完全な憶測にすぎず、データは示されていない。一般に推測できる範疇を超えた憶測で問題を大きく見せようとするのは不誠実な態度であるし、仮にこれが事実だったとして、労働時間が長いことは既に説明しているのだから、リスクしかない。蛇足なように感じる。

 

こうした長時間労動が過労死の問題の一端であることは確かにそうだろう。実例でもわかることである。ここに関しては問題はない。

 

が、全体を通してとにかく長い。労働時間が長いことや、過労死の問題があること、その実例は多くの人が知るところである。わざわざ事例を細かく説明する必要性は感じられない。どうせなら過労者数のデータでも持ってきて全体像を示した方がまだよかった。

聴衆や審査員が全く知らないだろうという社会問題に関しての説明であれば時間をかけた分だけの理解度向上も期待できるだろうが、今回のテーマはむしろ、常識レベルの理解力が存在することを担保に、最低限度の説明で切り抜けてしまってよいケースだと考える。この弁論で大事なのは、過労死自殺事件の詳細な時間外労働の時間などではない。もっと大きな、巨大な政策が後に控えているのである。明確な配分ミスである。

 

 

④に関心

この弁論を聞いていて、それ本当??と引っかかる最大のポイントの一つである。

A.固定給で雇っているから中間管理職に労働者の時間の裁量権が与えられてる。

B.中間管理職の人間は時間裁量権を無理してでも最大限活用することが正しいと考える

C.だから中間管理職の人間は労働者が仕事が終わっても無駄な仕事で時間を長く使おうとする

 

これって本当??

これ弁士は何をもとにどう判断してそうなった??って思うんですけど。

根拠も何もなく、いきなりすごい勢いでとんでもないロジックがでてきた。しかも容易に受け入れられるものじゃない。

もっと言えば、ここだけ田村弁士の言葉ではない気がする。借りてきたような、変な感じ。

逆に言えば、わかんないものを無理に自分なりに説明しようとして意味の分からない焼肉の例を言ってる感じ。ここで聴衆や審査員は全員頭が真っ白になってると思う。

 

正直、この原稿で一番個性が出てるのはここだと思う。この分析は正直言って僕は理解できないけど、ここだけ取り出して丸々弁論やってほしいレベル。

 

マジで理解できないし、こんなこと言ってる論文があるなら是非見てみたいんですけど。最大限ここを尊重して、このロジックが正しいとして以降の原稿を評価したいと思います。

 

ただ、これが問題だとして、この弁論で中間管理職の裁量権の問題が何ら後半で触れることなく終わっているのは謎である。ここ解決せずに問題が解消されるなら原因ではないでしょうに。

 

⑤に関して

まぁこれはなんというか。直接の話を知らないので何とも言えないが、入れたければ入れても良いと思う。ただ、もう少し短くできた感じはする。

 

⑥に関して

まず、日本の解雇規制はそんな簡単に人をクビにできるほど甘くないし、中間管理職が直ちにクビにできるほどの人事権を持ってるんですかね…。

労働組合だってあるし、僕も働いたことがあるわけではないけれど、それにしても現実社会を誤解しすぎていると思う。中間管理職をそんなに悪者にしたいのかわからないけれど、序盤の現状分析であれほど丁寧にやっていたのに、ここにきて書き手が変わったのかと思うくらいに雑な論理展開の連続。弁士乱心。何があったのか心配になってさえ来る。

一番の問題は、言ってることが正しいかどうかの裏打ちが無いこと。一見、おかしいと思える論調であっても、すぐにそれを裏打ちするデータがあれば聴衆の思考は追いついてこれるが、今回はそれらが全くない。故にこの原因分析は完全に聴衆を置いてけぼりにしている。

長時間労働に加えて、中間管理職によるさらなる労働、生殺与奪の権を握られていることが原因だというところに落ち着けたいのは理解できる。が、雑すぎてこの時点までで既に聴衆は疑問符が大量に並んでいるはずだ。

政策弁では、往々にして現状分析、原因分析までは理解できるが、政策が解決策として機能するかが疑問視され、判断され、糾弾されるものである。

それなのに、原因分析の時点で疑問符を持たれてしまっては政策も何もあったものではない。

 

 

⑦に関して

ベーシックインカム(BI)を導入することに関して。はっきり言って弁論中では何の脈略もなく唐突に出てきた感がぬぐえない。

弁士の考えを推察してみる。原因分析として、企業に生殺与奪の権を握られている状況があり、これにより企業は従来の理不尽に絶えざるを得なく、状況改善も難しい。しかし、企業に頼らずに生活できるようにすることができれば、労働者は企業に対抗することや逃げることができる。企業から生殺与奪の権を取り上げる具体的な政策のとして、BIを行う。という腹だろう。

 

最初にBIと言ってからこのロジックの説明をしても、聴衆は違和感を解消できないだろう。必然性を示してからBIを言い出す方がまだよかった。BIといった瞬間のインパクトは大きかろうが、これは、「これなら解決できそう」というような肯定的な反応というより、「何言ってんだこいつは」という否定的なものである。原因分析のところから既に弁士の考えと聴衆の考えには乖離が起きていて、このBIという政策を唐突に出したせいで、この乖離は致命的なものになってしまった。

 

ただ、このロジック自体はわからんくはない。わからんくはないが、だからBIをやろうとはやっぱりならない。BIなんてのはそれ一本で弁論やっても収まらないくらいに多くの論点を抱えている構想なのに、それをただ、国民一人一人に、生活できる程度のお金を一律に国から給付するという制度、という説明だけで終わらせてしまうのは流石に問題がある。

それに、この原因を解決する手段がBI以外に存在しないのかどうかも言及されていない。わからないけれど、ここまで雑に言っていいのなら、みんな起業して上に立とうとか、社会主義とか、労働組合の支援とか、転職支援とか、ブラック企業グランプリ、裁量労働制の徹底、パっと思いつくだけでもたくさん出てくる。BIにこだわりがあるのかはわからないが、BIで解決できるのかどうかも、何故BIなのかも全く分からない。

政策弁の命でもある政策の説明があまりにも雑。

 

 

⑧に関して

BIとは一転して、独自性というか、新規性というか。弁士の色が出ている部分である。

言いたいことはわかる。が、これもまた説明が雑である。

 

まずは大前提として。パソコンのついている時間を労働時間として見做すというのは本当に大丈夫なんだろうか。じゃあ、パソコンは閉じてプリントアウトした紙で会議をやって、修正は朝一でやれ、みたいな事になりませんか?

逆に職種によってはずっとパソコンを付けっぱなしでいなきゃいけないから意味が無かったりしませんかね。そもそもパソコンを使わない仕事はどうするんですかね。

それに、稼働時間を通知させて国が管理するとは言っても、どこの機関が、何を根拠に、どうやって長時間労働を止めるんですかね。とにかく説明が雑としか言いようがない。

 

さらに、③でも述べたことだが、弁士は現在の企業がデータを出し渋るといった、隠蔽体質があることを指摘している。この性質がプラン後も変わらないのであれば、登録していないパソコンを用意して終わりなきがしてならない。

現状分析では企業は隠蔽するという立場なのに、政策では急におとなしく従う存在だとするのはあまりにも都合よく扱いすぎである。

 

 

 

 

 

全体総括

とにかく政策が雑。時間配分が間違っていると思う。

この弁論の原型を変えずにやるとするのであれば、導入を簡素にして削り、現状分析を大幅に削る。

もしくは父の例を導入に持ってくる。現状分析はどちらにせよ削る。

④⑥の内容は精査しなおし。このままでいくとしても肉の例や生殺与奪の権、なんかの新規説明していない部分は片っ端から省いて全力でロジックを詰める。

削減した文字数で政策を詰めるが、正直両方を十分に説明できる文字数が確保できるとは思えない。

選択するのはどちらでもいいが、どちらにせよ、丁寧な説明と、その政策の必然性を十分に示し、その政策が十分に問題を解決するビジョンを示す。

 

ともかく、ちゃんと説明しなきゃいけないことが多すぎる弁論であり、文字数を無駄に使っている場合ではない。

ある意味で、遊びの余地がないガチガチな政策弁論に仕立て上げるための自分なりの添削案だが、こうして見てみると、弁士は案外、ガチガチな政策弁論をやりたいというよりも、どこか自分の言葉を入れた遊びの余地がある弁論がしたいのかなとも思ってしまう。

 

演題はエヴァンゲリオン生殺与奪の権鬼滅の刃ラピュタに焼肉食べ放題。何の必然性もなければ、それ以降に回収されるわけではないネタの数々。

こんなものはただ闇雲に数打てばいいというわけではないと僕は思うけれど、こうした随所にちりばめた政策弁論とは直接関係ない部分で聴衆とのコミュニケーションを取りたいという弁士の思いがあるのであれば、添削の形は全く変わると思う。

こうした、弁論の中での遊びを含めた原稿を用意するのであれば、そもそも話さなければならなないテーマを厳選すべきであると思う。

労働問題を取り上げるとしても、最低限の構成要素で完結させて、政策弁としてコンパクトに完成度高くまとめたものに、違和感ない形で随所にネタを入れる形式になるだろう。

その場合は、

④⑤⑥を丸々切り捨てて、政策は⑧で終わらせるのだろうか。

③のみで長時間労働を原因にしてしまって、そこに直接⑧をあてに行く。⑧の新規性を政策弁の価値として押し付けつつ、その分文字数を割いていく。

ここまで内容を厳選しないと、ネタを入れていくことは難しいと思う。

 

 

あくまで自分ならこうするというものでしかないが、参考になればと思う。

弁論に正解はないので、自分なりに納得のいく弁論を目指してほしい。

 

何かコメントあれば是非に。

 

13 國學院学長杯 (観戦)

弁論部4回生にもなって懲りずに弁論大会出場を考えている中、リハビリもかねて自分なりに弁論に向き合ってみようかなと思います。

 

 題材は2021年10月9日に行われた國學院学長杯。コロナ禍の中、限定的ではありますが対面で弁士が演台に立ち、質疑も行われた大会でした。昨年同様に対面で大会を開催してくださった國學院弁論部の皆様方には頭が上がりません。

やっぱり弁論大会は対面がいいですね。

 

 さて、さっそく第一弁士から順に見ていきますが、個人の感想や、弁論観による意見が多分に含まれていると思います。何か意見、文句、聞きたいこと、感想でも、何かあればコメントなりTwitterにDMするなりリプしてください。

 

※弁論に接したときの評価は人それぞれです。僕は人よりもかなり厳しめに見てる節はあるので、弁士や弁論の良さを十分にこのブログでは抽出できていないと思います。

あくまで、僕ならこうするとか、ここにひっかかる、みたいなのが中心なので、まずは動画等で、弁論に直に触れていただきたいです。

 

 

第一弁士 岩崎航大弁士 「ニッポンのエネルギー戦略」 

脱炭素の為に水素エネルギーへの転換を訴えた。

 

まず、全体的に声調が穏やか。とても聞きやすい一方、眠くなる。フレーズの激しさもあまりなく、内容の起伏の少なさと相まって、音声が右から左へ流れていく。声はとても良いので、記憶に残らせるべき内容の部分でもっと激しい声調があればよいなと思う。

 

この弁論で特筆すべきは政策2点目のアジア圏水素経済圏なるものだと思う。

生産、流通、消費をパッケージして政府主導でやっていく。政策的理解はできるが、言ってることは面白いはずなのに何故か何度聞き返してもインパクトを感じられない。

ここが一番面白いはずなのに、声調態度は前半と何も変わってない。だからか、盛り上がりに欠ける。

時間配分も良くないと感じる。この弁論で勝ちに行くならこの部分にもっと重点をかけるべきだった。正直、政策1点目の金をかけるべきだなんてのは当たり前の話で、政策2に包含できたと思う。一人目の質疑者が聞くように、現実的な実現ラインや、イニシアチブをどうとっていくか、どうEUや中国、アメリカ、etc…に対して優位をとっていくのか、明るいビジョンをもっと訴えることができたと思う。

 

水素エネルギーなんて研究中な未知なものに手を出すのであれば、現状分析はそこそこに、解決性に時間をかけるべきだと考える。弁士は聴衆や審査員と違って、事前に調べられるのだから、質疑で多少つつかれようが、上から知識で殴れる訳で。いかに現実感をもって、かつ明るいビジョンを聴衆や審査員に描かせるかに時間を割けば、聴衆や審査員の記憶に残る弁論になったのかなと思う。

 

また、政策弁論あるあるではあるが、水素というテーマ、水素という政策を弁士が扱う理由が示されてないという問題点もあった。もちろん、示しにくいとは思うが、そこを何とかできなかったかなというのは思う。インターンして興味を持ったってのは弁論の導入としては弱いかなぁと。

 

 

第二弁士  藤岡祐弁士 「雨だれ毒を穿つ」

薬物問題とその対処について。

 

大半を占めている説明に関しては特に言うことが無い。個人の好みがある部分だろうし、何か言ってもしょうがないところだと思う。ただ、常識的な知識に多少色を付けたような現状分析をずっとされても、興味は持続しないのではないか。

 

ゲートキーパーになってほしいという政策(?)、訴えに関して。4つの要素をすれば他人を守れるというのは、まぁ理解した。がそれだけ。

 

僕は常々思っているのだが、これ弁士が何か言う必要があったのか??って思ってしまう弁論の典型ではないか。

薬物が悪いものであることも、友人がそういう状況になっていたら多少なり止めるように、遠ざけるようにすることは弁論会場にいる人であれば常識として身に着けているだろう。というか、この程度の話を知らない人間がこの会場にいると本気で思っているのだろうか。はっきり言って、当たり前の現状分析から、思ったよりも貧相な個人への呼びかけという政策にとどまったのは、面白みがないと思う。

 

僕なら、嗜好用大麻合法化で完全管理とかそういう方向でちゃんと政策詰めるとかするかなぁと。まぁテーマがテーマなので、そもそも新規性も何も難しいと思うんですけど、このテーマ選ぶのであれば、せめて政策で個を出すなりしてほしかった。

 

ただ、弁論全体としては(小さくではあるが)まとまっていたと思う。内容選択自体の改善はできたと思うものの、この内容を選んだうえでの出来は良かったと思う。

他のテーマで再挑戦した際は、是非、一歩、大きく踏み出てほしい。

 

 

第三弁士 井出凛太郎弁士 「愛と正義を否定する」

(名字が同じだけあって個人的に関心があります)

演題の時点で好きです。センスがあると思いました。

 

全体を通して声調がとても良い。聞きやすいし、速度も良い。上手いなと思った。

導入の掴みから、体験の一般化で大きな意識に持っていく手法のお手本として、特に弁論の冒頭部分は大いに参考にしていきたい。

 

合理的配慮に関して。

配慮が自己満足の手段になってるという弁士の危惧は理解できる。

24時間テレビの批判も個人的にすごくわかる。(24時間テレビがそもそも障がいを持つ人に対して配慮をしようだとか、そんなこと考えてるとは微塵も思えませんが)

他者の意向を無視した、「一方的な」愛と正義を否定しているという論旨は明快。

 

なだけに、なんで対話というところに着地してしまったんだという思いが消えない。合理的配慮のための心の在り方として、純粋な当事者の意見を尊重したものであるべき。だからなんで対話なんですか???

対等な立場で主張し、話し合う、そんな社会を目指すのはよくわかる。けれども、被配慮側の当事者の意識を100%取り入れるのであればそれは対話ではなく、主従であり上下である。果たして対話なのか僕は懐疑的です。

これは僕が懐疑的なだけであって、実際には質問者の中には共感した、みたいな人もいたので、諸説あると思う。

 

 

対話をするという提言で、「愛と正義を否定する」という演題と弁論の主旨との関係性が一気に曖昧になった。合理的配慮のための対話、定義付けはされていないもののこれが愛や正義だと普通は思うだろう。24時間テレビのような「一方的な」愛と正義を否定したところまでは良かったので、なんとかしてここを解消したい。

 

簡単な話、合理的配慮の為の対話を愛と正義以外の言葉で置き換えたい。そもそも、正義は一方的なものだし、愛も一方的なものだと言い張ることもできなくはない。(相思相愛は相愛だから一方的じゃないだけ、単愛は一方的やん、みたいに)

愛と正義それ自体を24時間テレビのメタファーとして、また一方的なものとして否定しながら、対話をうまいこと愛と正義に対応するもので言い表せたらすごくカッコよく締まると思った。わからんけど、今までの一方的な配慮から一歩抜け出す勇気、対話の為に話しかける勇気、みたいな感じで愛と正義じゃなくてこれは勇気なんだ!みたいな?

(完全にアンパンマンのノリです。こういうのセンスないので。)

 

弁論の最後の締めくくり、せっかくなら「だから私は、愛と正義を否定する!!」とか僕なら言いたくなっちゃうので。

 

 

ともかく、題材選びから、導入含めて、論旨は明快なうえ、声調も良く、わかりやすかった。凄い!!!

今回で弁論を聞くのは2回目だと思うけれど個人的に期待しているので、是非今後も弁論やってほしいなと思います。

 

(以下は超個人的な過激な意見です)

ぶっちゃけ、配慮する人間てよほど清らかでもなければ、社会的要請によって仕方なく、したくもない配慮をしてるとか、それこそ弁論中にも言ってるような、押し付けの自己満足のマスターベーション的配慮の方が現状殆どだし、そこに当事者意識が欠けているとさらに文句言われるなら、触れぬ神にたたりなし。何もしないってのが一番無難な選択肢になると思ってます。

だって対話めんどくさくない?わざわざ配慮する側の人間が、なんで配慮される側にお伺いしなきゃいけないのって思うので。

配慮を施しというのは性根が腐っているかもしれないが、人間、施しを受け続けるとそれが当たり前になり、もっとよこせと言うものだ。要は何かやってほしいけれど、してほしくないことはするな。俺の話を聞け。もっと配慮しろってことじゃないんですかね。

僕はそこまでお人よしではないので、そんなこと言われたら無視するなって思うので。

配慮される側が快適に配慮される環境を作り出すことはできるかもしれないが、その分配慮する側の人間にとってやり辛い環境が待っていそうでならない。そうなった時、最終的に困るのはどちらなんでしょうかね。

 

 

第四弁士 木村荘太弁士 「夢から醒めよ、超特急」

(※弁士がマイク付け忘れ(?)か何かでとても動画では聞き取りづらく、正確に理解できてないかもしれません。)

始めに、僕は鉄道に関してはオタクどころか、からっきし知識がないど素人です。詳しい人が聞いての感想ではないので、原稿の中で示された情報と若干の常識ともいえる知識で判断してます。

 

自分なりに整理してみると、

1,弁論の目的は新幹線の計画路線見直しと並行在来線の維持

2,新幹線による代替は、住民や在来線をないがしろにしてしまう

3,対策としてスーパー特急で在来線を廃線にせずに高速旅客輸送を実現

4,上下分離でJRを在来線経営に追加して地方自治体の負担を緩和

 

大まかにこんな弁論構成だったと理解した。

まず、弁論内容以外に感じたことについて。マイクの付け忘れはしょうがない。緊張していればミスもある。マイクがついてなかったとはいえ、声調全般は聞き取りやすく、間の取り方も良かった。強調したい部分もはっきりしていたし、良く仕上がっていた。

 

弁論の内容はともかく、この新幹線や在来線についてのテーマを木村弁士がなんで行っているかは弁論中では全く伺えなかった。別に何が何でも自己言及性だの何だのを入れればいいというわけではないけれど、この原稿は木村弁士に紐づけられているように感じなかった。社会問題として取り上げているにすぎず、悪く言えば弁士に紐づいていないからこそ興味が持続しない。最初から新幹線や在来線に興味がある人ならば聞く気は起きるかもしれないが、そうでない人には何がなんだかわからない。

個人的な考えだが、弁論の場において、聴衆や審査員に最初からあるのは弁士への関心のみであって、弁士が話したいテーマではない。弁士個人と弁論テーマを紐づけるという意味での事故言及性は、弁士への関心を、テーマへの関心へとスムーズに誘導するための効果的な手法である。

聴衆や審査員は弁論大会に来ている以上、弁士の話を聞く義務があるとは思う一方で、弁士側からも、聞かせる努力、興味を持続させる努力は怠るべきではないだろうし、その結果が魅力的な弁論として評価されることも多かろう。入賞や優勝にも結びつくだろうし、弁論を通じての説得技術向上という観点でも、意識すべきことだと考える。

 

 

弁論の中身に関して。

正直、鉄道に関して知識がないので何とも言えないが、気になったのは「地元の人々をないがしろにしてしまってよいのだろうか。」というような声かけが繰り返されたことだ。

弁士はさも当然、というか説明不要という感じで地元の人々が大事だとしきりに言っていたけど、正直素直に受け入れられない。

だって大半、下手すりゃほとんど赤字路線なんでしょって。お金も労力もかからずに救えるのならまだしも、赤字垂れ流してなお維持する必要性をもっと訴えるべきだったと思う。人口集中、高齢化、地方衰退。こんな状況で社会インフラの一部だからというだけでそもそも救うべきなのか疑問視されてもおかしくない。

質疑に対しても、新幹線利用者よりも地元の人が優先されるべきだと考えると言っていたけれど、何故そうなるのか説明はしていない。弁士の中では地元の人々が大事なのだろうが、その価値観は他の全てを上回るほど優先されてしかるべき考え方なのか。

仮にそうだとしたらあちこちにある在来線は廃線になってないだろうし、現実は過酷である。理想論は掲げるだけでは意味がないし、誰かと共有できなきゃ意味がない。この弁論では何よりも、この地元民を救いたい!という意思、誰一人取り残さないという強い思いとその根拠を聴衆に示して理解、納得してもらわなければ、その理念達成に向けた解決策に賛同し辛い。一番大事な問題意識を、みんなそう思うよね?みたいな感じで流してしまった気がする。

 

政策に関しての評価は僕にはできません。これが現実に有効なのかとか、今どんな取り組みがあるのかとか全く知らないし興味もなかったので。

在来線で超特急を走らせて高速化することが既存のインフラで可能ならばいいとは思うけど、追加改修とかどれくらいするのかわからんし。ただ、個人的には新幹線で乗り換えなしで行けたら便利だなぁって思っちゃうので、わざわざ在来線に乗り換えるのめんどくさいです。新幹線が延伸するならそっちの方が旅行する身では楽。

あと、この政策で赤字路線が黒字化するのかは気になりました。新幹線と在来線で別会計だと在来線が今よりもっとやばくなるのはわかるのだけれど、この計画で黒字化するのか、もしくはもっと赤字になるのかわからないから評価できない。黒字になるならそりゃやり得だけど、余計に赤字になるくらいなら地方自治体の負担も大きくなるし、何よりJRが本当に入ってきてくれるのかわかんない。

鉄道知識があればこの辺も違和感を覚えることなく理解していけるのかもしれないけれど、もうちょっと丁寧に説明してくれるとイメージしやすいかなって思いました。

 

次はマイクつけて、木村弁士の内面にもっと踏み入った弁論でのリベンジを期待してます!!

 

 

第五弁士 草部萌弁士 「濡れぬ先の傘」

このブログは別に褒めるためにやってるわけではないので素直に感想を書きます。

正直、聞いていて関心が持続しませんでした。何回も聞き直したけど。

 

とりあえず2点ほど原因があると思っていて、まずは「~について説明します。」という文体の乱用。政策弁論をやるうえで、現行の政策であったりその問題点を指摘することはよくあることだが、これは聴衆に説明しますと言ってするものなのか。

今回の弁論だと虐待に関しての聴衆の関心が高まったとして、話の流れで自然に、今政府が何やっているのか知りたい・聞きたい、今やっていることがなんで駄目なのか知りたい・聞きたい、といった感じで聴衆が弁論を聞く中で自然と考えて情報を欲するところに、ドンピシャでその情報を置きに行きたい。政策弁論の構成として必要な要素や情報だとしても、それをいかに聴衆が自然と興味を持つように思考誘導するかが弁論で問われる技術の一つだと思ってます。この弁論は、そういう意味では純粋に虐待に関しての、まさに説明を受けているだけであって、弁論、というか説得する気はあるのか?という感じです。誰に何を説得してるんですかね。虐待がダメなことくらいみんな知ってますし。

 

次に、原稿の文語体の徹底の裏目。要はずっと「です・ます」調なんですよこの弁論。原稿は文字で書くので文語体になるのはわかるんですが、実際には言葉にして声に出して伝える文章なので、原稿段階から口語体を意識して、意図的に文末を使い分ける必要があると思ってます。体言止めや、強めの語気、台詞、引用、声かけ、疑問形。文末のバリエーションは時に緊張感を、時に適切な間を、時にそれ自体が離れていく関心を引き戻す力があると思ってます。自分が考えたことを人に説明してるときの声を録音して書き起こす、とかやってみると口語体の原稿がわかりやすく現れると思います。是非自分の語尾で話してほしいです。

 

 

政策に関してはこれ実現できるのかって思うことだらけでしたね。

そもそも、北欧の社会福祉国家でできたからと言って日本の規模でできるのかも不明。しかも最初から年間45件しかないケースがが0件にって言ってますけど、日本は45件で現状済んでるんですかね。人口規模の違い加味してもこんな最初から少なくはなさそうですけど。てか少ないならやる意味小さいしね。

面談の回数増やせば信頼関係ができるのかも曖昧。そもそもそんな回数面談できる家庭が本当に対象なんですかね。自治体側も負担やばそう。

それに、虐待する家庭はそれを隠そうとするって分析を弁論中にしていたけれど、この性質が変わらないのであれば政策の効用は低そうですけどね。

 

相談員の給料とか、人員不足の問題とか、その他もろもろ、どうにしなきゃいけない問題が山積みなのに、解決しなければならないの価値観のごり押しじゃ説得はされない。

何としても用意しなきゃいけないなら、その何としてもってところのビジョンを見せてほしかった。具体的な解決策が思いついていないのであれば素直にそう言うべきだし、これは大学生だからとか言って甘えられる部分ではない。

政策弁論において、予算はどうするのかとか、本当にできるのかとか、そういう部分に突っ込まれるのは当然想定できるであろうし、完璧に国会で予算が通るレベルの解答を用意できるわけがない。ただ、見込みや概算すらしないでいいわけではないし、それをしないのは怠慢か無責任な理想の押し付けだと思う。

リベンジに期待。

 

 

 

第六弁士 粕尾瑞規 「誰一人取り残さない」

すごく良い。声調含め綺麗にまとまってる。

導入から始まり、寒冷地方にフォーカスする理由まで違和感なく進行した。

弁士自身の将来性も含んで弁論としての完成度はとても高いと思う。演題の弁論中での活用も効果的であると思うし、総合的に見ても納得の入賞である。おめでとう。

(というかこれ優勝だと思ってました。)

 

褒めてばっかでもしょうがないのであえて意地悪に、斜に構えてみたいと思う。

今回の弁論中での弁士の言うところの「誰一人取り残さない」というのは、新たな環境税増税という政策によって取り残される人が増えることを防ぐものである。

弁論中では既存の税体制であっても、全体で見ても15%が燃料貧困、シングルマザー家庭で35%や貧困家庭では63%で燃料貧困に陥っていると述べていた。なるほど既存の税率でも燃料貧困という形で取り残されている人がいるらしいが、この既存の税率自体の問題点は放置するのだろうか。

既存のエネルギー諸税を整理して、炭素税として整理するというのは、税収の用途を環境対策に充てることであって、家計の税負担自体が減るわけではない。日本の立場は守れるかもしれないが、家計も守れると言い切ってしまっているのは違和感がある。

既存の燃料貧困という、既に取り残してしまっている人々に対しての言及は弁論中では現状分析以上のものはなかったが、ここは弁士の理念として放置していい部分ではなさそうではある。

ここまで弁論中で求めるのは酷であろうし、時間的、文量的制限はあるだろうが、この点に関しての質疑等もなかったので弁士の考えが何かあれば気になるところではある。

 

繰り返しにはなるが、視点は素晴らしいし、切り口も良い。弁論としての完成度も高い。是非とも公務員試験頑張ってください。

 

 

 

第七弁士 大畑智弁士 「神隠し」

直接の知り合い、かつ原稿作成にほんの少し関わっていたので、突っ込んで書いてみます。

途中で原稿読みに詰まっていた箇所があったけど、これは純粋に練習不足。普段の大畑ならしないミス。原稿作成がギリギリになった弊害。とはいえ声調全体は流石4年。

 

導入から含めて大まかなストーリは良かった。政策の評価は後述するとして、失笑だろうと含み笑いだろうとなんであれ、聴衆が思わず反応してしまうほどにインパクトがあったのは間違いない。他にも、「脳が忘れても、体が覚えている」という台詞も弁論全体を端的に表しつつ印象に残り、聴衆の反応も得た。こういうことが随所でできるのは流石であるし、参考にしたい。

 

原稿自体の出来はよかったが、途中のBluetoothの話は無駄に細かく、いらなかったと思う。正直、既存の対策では無理ってのはGPSの話で網羅できている。質疑でくれば返せるようにはすべきだが、弁論中で時間を割くべき事柄ではないと思う。

 

僕なら、演台から千と千尋の神隠しを持ってきて、帰るのに必要なのは自分の名前を忘れないこと、でも高齢者・認知症で脳が忘れてしまう。でも大丈夫、脳が忘れても体が名前を憶えてる。みたいな感じで名前の重要性をジブリ映画を参照しちゃうかもしれない。

 

政策に関してはマイクロチップってのは良いと思う。そこにマイナンバーを使うのも良いと思う。DNA情報や指紋情報を国家が国民全員分取得して情報管理する方がよっぽど怖いし、あくまでも名前と住所さえわかればよいのだから、マイナンバーという話はもっとも。そうした個人情報と肉体を結びつけるのに現実的かつ確実なのがマイクロチップという展開をもっと素直に打ち出せば、容易に反論できない気はする。対案はそう簡単に思いつかないし、それによって解決できる問題が現状分析で既に示してある。

 

ただ、だからこそマイクロチップ埋め込みという行為そのものに抵抗を感じる事態への配慮が原稿中でどうにかできればと思った。北欧での実践だけでは不安がぬぐえないだろう。

 

 

第八弁士 新谷美華弁士 「正義という名の暴力」

優勝弁論。

どこかで聞いたことがある内容なのだが気のせいだろうか。僕だけじゃないと思う。

 

(僕は正直、この弁論が優勝なのが納得できない。第六弁士の方が完成度として上じゃない?って)

 

弁士自身の家族が加害者本人であるようでもないが、なんでこの弁論をわざわざ新谷弁士はしたかったのであろうか。冒頭でいきなり声を大きくして叫べばどんなテーマにでも関心を持ってくれるとでも思っているのであろうか。加害者家族を救いたいという意思はわかったが、それだけである。

 

弁論の中身として。NPO法人とかの既存の団体を活用するのは良いと思う。バッシングはおいておいて、加害者家族への支援が重要だというのは理解できるし、そこは誰も否定しないだろう。

ただ、利便性の拡充と周知に留まる訴えは、聴衆や審査員の予想を裏切らない、有体に言えば平凡な一手。勝手にやってればいいし、わざわざ言うことじゃない。目新しいことが常に正義ではないかもしれないが、はっきり言えば面白くない。どこにも個性がない。そう感じてしまう。

 

だからこそ、この弁論では政策ではなく、バッシングという行為とその抑制に焦点が過度に集まってしまう。本来弁士がもっと意識して欲しいのは上記の政策であり、直接的な加害者家族救済の手段であるはずなのに。しかも、何やらよくわからないことを言っている。「加害者家族は加害者ではない」

 

 

前提として。そもそも、聞かなくても加害者家族は加害者じゃないってのは当たり前では?

加害者家族へのバッシングは加害者家族は加害者だからバッシングしているのではなく、加害者家族であるが故にバッシングしている。

それに、加害者ではないからバッシングしてはいけないという理論は、まるで加害者はバッシングしていいみたいにも聞こえる。バッシング自体がダメなのではなく、加害者でないから加害者家族にバッシングしてはいけないという理論展開は弁士が望んでいることなのだろうか。

 

実態として、加害者家族と加害者との関係次第で、加害者家族にも責任の一端がある場合もあるだろう。一人目の質疑者への解答でも、犯罪は複合的要因があり、家族の責任だけが追及されるのはおかしいと言っている。じゃあ、家族も社会も制度も悪いと言って家族にバッシングするのはありなのか??そうじゃないでしょ。

自責の念に囚われるかどうかはバッシングに関係ないというのは理解できるが、バッシングに関係なく自責の念に囚われているのであれば、バッシングはある意味で正当なのではないか。責任を感じている人間に責任を追及することはバッシングではない。過剰なものは犯罪として処罰すべきだが、根拠のない非難ではないでしょうに。

 

氏名変更の応答含め、国民感情という漠然としたものが依然としてこの弁論を妨げていることは弁士も自覚していることだが、一般論として、犯罪者やその家族とそうでない人々を比べたら、やはり犯罪者やその家族を避ける傾向があるのは仕方がない感情だと思う。

それこそ弁士がしきりに言っていたアメリカなんかでは、例えば性犯罪者の名前や住所が調べれば出てきたり、どの地区にどれくらいいるのか一目でわかるようなサイトがあったりする。こうやって、加害者本人を過度に意識して避けられるからこそ加害者家族への風当たりが弱まるような制度設計があるわけで、そんなものがないままに、加害者とその家族への風当たりを弱めてほしいと言われても無理なものは無理である。

正直僕だって、結婚相手が犯罪者家族かそうでない家族か選べるのであれば後者を選ぶだろうし、好き好んでリスクをとる人などいない。できれば遠ざけたいし、引っ越ししてくれるのなら本望だという人が少なくないだろう。

 

根深い感情問題の原因を、加害者家族を加害者だと勘違いしてることだと、まさに勘違いしているのであろうか。そんなわけがない。理屈ではどうにもできない感情の問題を解決したいのであれば、その感情の原因にまじめに向き合うべき。本当にそんな勘違いが原因だと思っているのか。弁士の周囲の人間はこの問題意識を止めなかったのだろうか。弁士の周囲の人間の責任を考えるのはまるで加害者家族の責任を問うているようで心苦しいが、自分のもった問題意識を、これが原因に違いないと安易に思い込んで突っ走ると、聴衆や審査員は置いてけぼりになるし、そうじゃないでしょという感想しか残らない。少なくとも僕は、そう感じた。

 

 

 

 

 

12 桜門杯

2019年10月5日土曜日、日本大学で行われた桜門杯争奪弁論大会に弁士として出場しました。

 

結論から申し上げますと、今回の弁論大会に関しては私の弁論動画は公開しません。

本来、私が弁論動画を公開していた目的は、公開することで意見や感想などをいただければ私自身の成長や課題発見につながるという打算的なものもありますが、それ以上に様々な事情で弁論会場に直接足を運ぶことが出来なかった方に対しても開かれた弁論を行うための具体的な行動として、というものがありました。

 

しかし、今回に限っては後に後述もしますが、様々な身勝手な理由により公開を止めました。申し訳ありません。

 

 

今回の桜門杯には私を含めて9人の弁士が登壇しました、私は第八弁士での登壇であり、当日は第一弁士~第七弁士の弁論を総評できるほど十分に聞くことが出来なかったため、ここでは割愛します。多くの方は(少なくとも私の知る限りの友人は)総評よりも私自身の弁論についての振り返りの方に関心がありそうです。

 ※大会の総評に関しては、友人のブログ記事が簡潔かつわかりやすくまとめてくださっているのでこちらを是非

日本大学桜門杯弁論大会の総括 - 朝自慢 https://asadziman.hatenablog.com/entry/2019/10/12/000235

 

 

 

さて、私自身の弁論ですが、動画を公開していない分、準備していた論旨を簡潔に書いてみます。

 

① そもそも、学生弁論大会において弁士として演台に立ったとはいえ、聴衆や審査員からすれば弁士など知った存在ではない。という当たり前の前提が学生弁論大会においては忘れられており、従って形式的な導入はさておきいきなり政治・経済などの本題に入る弁論が散見される。

 

② 現実にはいきなり本題などを話し出されても誰も聞かないであろう。しかし、弁論大会においては訓練された聴衆や審査員が、「本来であれば聞いてもらえない」弁論を最後まで集中して聞いている。これははっきり言って聴衆や審査員が弁士を甘やかしている構図であり、だからこそ弁士は気が付くことはない。

 

③ 本来弁論とは一般大衆を説得するための手段である。こと論理展開の技量においては我々弁士は力を入れているが、それを聞かせるための努力を怠っているのではないか。そうした努力とは具体的に、弁士自身に関心を持ってもらうという一連の取り組みではないだろうか。

 

④ こうした「まずは自分自身に興味関心を抱かせる」という考え方は、こと学生においては恋愛の初期で用いられる。だからこそ、弁士諸君、聴衆諸君、恋愛をしようではないか。このために私はこと恋愛や人間関係の構築術として自身の中にあり、実践してきたある考え方を紹介する。

 

⑤ 相手から自分に向けられる好感度を数値化して捉えてみることだ。最初は0。認識して5、話したことはある、顔は覚えているを10。普通に話すことはできるを20。このように段階的に捉えてそれぞれの段階に応じて相手への働きかけを行う。もちろん、段階に応じて行うことが許容される働きかけも異なる。例えば、いきなり合コンの初対面の相手に経済の話をする人間はいないだろう。普通は仲良くなって、ある程度そういう話が出来る間柄になってするものである。しかしまさに弁論の場ではそれを弁士がしているのではないか。

 

⑥ こうした、自身への関心度、もっと言えば好感度数値を弁論を通してコントロールし、適切な組み立てを行うことが、弁論が本当の意味で一般大衆に対する説得力を持つことになるのではないだろうか。こうした取り組みが、雄弁を沈黙以上に価値を持つものにするのではないか。

 

 

以上が桜門杯で私が「行おうとしていた」弁論の論旨です。

実際にはこの論旨通りの弁論ができていたか、もっと正確に言えば、論旨が正しく伝わるような弁論ができていたかと問えば、おそらく不十分であったと思います。

 

この原因はいくつかありますが、そもそも前回の大会から2週間しか期間が無かったこと、持病の喘息が発症していて体調が万全ではなかったこと。こうした点を踏まえて十分に時間をかけて表現技法を創意工夫及び添削することが出来なかったことにあります。

さらにいえば、前回の拓大杯で優勝して気が緩んでいたことも否めません。こうした諸々の点を鑑みて、弁士として演台に立つ以上は最低限すべき努力を怠った責任は重いものだと反省しています。

 

こうした反省を踏まえれば、失敗したからと言って公開を控えるべきではなくむしろ公開することが望ましいと考える方もいるとは思います。しかし、こと今回に限ってはこの失敗が私の想定よりもはるかに精神を削っています。大変身勝手ではありますが、これ以上の心的負担を今掛けるのは危険な状態であり、動画の公開は控えようと思います。

今後回復し、大丈夫と判断出来た際には公開することもあるかもしれません。

 

 

さて、こうした中でも原稿を持たずに演台に上がった私の不完全な弁論の結果は、審査員からの厳しい評価となって私に突き付けられました。中でも審査員長からは9人の弁士の中で唯一質疑され、閉会式でも名指しで叱責され、審査員講評シートにおいても激しい表現で講評がなされました。

 

中にはこうした審査員長の態度を大人げないなどと批判する方もいましたが、その点に関しては学生にわざわざ時間を割いてくださった方のお言葉ですので私はむしろこうした姿勢はありがたい限りと考えます。

実際、講評シートに書かれた表現技法に対する指摘等含めた一連の指摘は私自身の努力不足な面も踏まえて的を射ているものも多く、この場で特段取り上げるような内容ではありませんでした。

 というのも、弁論内容に関する指摘はあまりなく、基本的には表現技法に対しての指摘ばかりだったためです。

 

しかし、大きく1点だけは私としては全く受け入れることが出来なかったため、この場で取り上げておこうかと思います。それは他の大会の審査員を侮辱する発言です。

 

審査員長とはレセプション中にそれなりに話をさせていただいてのですがその中で 

 

   「まともな大会の審査員ならそんなことはしない」

   「そんな審査員がいたらそいつはクズだね」

   「なんでそんなクズな審査員の言葉を真に受けてるのさ」

 

ということを言われていました。これは私が審査員長に対して

「今回の審査員の皆さんは弁士に対して全く何も反応していなかった。質疑すらしなかった。何を考えているのかもどう評価しているのかも全くわからなかった」

ということを言ったことをきっかけとした文脈です。

 

審査員長はこれを、後の弁士に有利なように働くことを防ぐため、とおっしゃいましたが一方で、審査員は聴衆の中で得点を付ける聴衆にすぎない、という考え方も示しています。現実に無反応な聴衆などいるでしょうか。自らを聴衆の一人としていながらも弁士の言葉に対して全く反応を示さない者は聞いていないも同じだと私は考えています。

 

少なくとも私の弁論は聴衆が聞いているのであれば、当然返ってくるであろう反応を予測し、それを取り入れる形での対話形式を取り入れた弁論を模索しています。私のような過剰にそれらを意識していなくても、当然想定されるであろう反応を意識した弁論は少なからず存在します。

 

仮に、審査員長の言う後続の弁士の利にならないために無反応であることが一つの立場として認められたとしても、そうでない審査員を「クズ」だとし、そうした審査員のいる大会を「まともでない」と切り捨てるのはあまりにも他の団体、他の大会を侮辱しています。

実際、多くの学生弁論大会を見れば審査員が弁士の言葉に反応し、時に質疑を行うことなどよく見る光景です。決して、こうした大会がまともでないわけでも、ましてやクズな審査員ではありません。

 

私も過去には弁論大会のこうした審査員から多くの言葉を受けて自身を形成してきました。そうしたもの全てを否定された悔しさを、その場でぶつけられるほど当日の私の弁論は完成されておらず、そうした感情からレセプション中では涙を見せてしまいました。

 

 

他にも特定の弁論スタイルを賛美するような姿勢や、排他的、自身が正解だと思う弁論以外を決して認めようとしない姿勢は(これは私自身も気を付けなければならないことではありますが)、私が今大会の審査員長を受け入れることができない大きな理由です。

 

これは個人的な見解ではありますが、せっかく今回の桜門杯ではパワーポイントの使用可能という枠組みや、補助員の利用が出来る点(この補助員を斬新な形で活用した弁士もいた)などの他の学生弁論大会とは違った取り組みがなされていたにも関わらず、審査員の体制がそうした弁論を評価する姿勢が見られなかったように感じます。

これでは本来の大会の意義を十分に(表彰)結果として弁士や聴衆に示すことが出来なかったのではないかと個人的に感じました。

 

 

他の審査員のコメントに関しては要望があれば追記します。

まずはこの辺で。

 

 

 

 

 

 

 

11 拓大総長杯

昨日、2019年9月21日に拓殖大学文教キャンパスで行われた、第28回拓殖大学総長杯全日本雄弁大会に弁士として参加してきました。

 

弁士順は7人目で最終弁士。ただでさえプレッシャーのかかる弁士順な上に演題が「最後の砦」。

結果は5回目の弁論大会にして初めて優勝することが出来ました。

 

さて、通常の弁論大会では質疑応答の時間が設けられていても審査員からの質疑と聴衆からの質疑で時間分けがなされていないところ(この場合、審査員の質疑が優先される場合が多いが)、今大会の特徴としては審査員質疑の時間が10分、聴衆の質疑が10分と明確な区分けが為され、その結果審査員からの質疑や指摘が(ほぼ)確実に受けられる点にあります。

 

今大会の審査員の方はまさに三者三様と表現するのが適切で、弁士の問題意識や自己言及性や演題について深堀する方、実行可能性や解決性を深堀する方、そして弁士自身言葉かどうかや、背景にあるそもそもの考え方や物の捉え方に着目する方、といった印象を持ちました。

 

原稿を読まないからこそ(ついでに最終弁士だったからこそ)、当日の審査員や会場の雰囲気に応じて内容を追加・修正できることが私の弁論スタイルの強みですので、今回は審査員が特より前の弁士に指摘していた

 ①弁士の問題意識やその問題意識を持つにあたった具体的な出来事

 ②演題と本論の関連

 ③自分の言葉で話す

 ④質疑応答時に無駄な反復をしない

という点を意識した弁論しました。(したつもりです)

 

また、今回は政策弁論という形で、具体的な解決策を提示してそれらのよって現状の問題が解決するということを訴えることよりも、私自身の問題意識をより具体的に示し、問題意識を共有することに重きを置いています。

聴衆の方からは、どっちかというと価値弁論だ、と言われました。

何はともあれ動画をどうぞ。

drive.google.com

 

 

※以下グダグダと感想やら反省を書き連ねているので興味のない方は飛ばしてください。

 

今回の大会では、7月に行われた春秋杯と同様に原稿を持たずに登壇し、100%自分の言葉で話す形式をとりました。

弁論大会出場自体は5回目となった今大会ですが、原稿を持たずに登壇するのは2回目ということでやはりまだまだ緊張がほぐれませんでした。

 

今回の大会に出場するにあたって、原稿無しの弁論への意気込みはこちらの春秋杯のブログでも書いてます。

 

yansuto.hatenablog.com

 

この中で、次回の大会に向けての反省点が挙げられています。

 

  今後も積極的に原稿を持たずに演台に立つことを考えていますが、今回の反省点としては、①もっと構成はしっかりとあった方が良いということ、②一貫性を維持するために聞こえが良く汎用性の高い単語をフレーズ単位で記憶して散りばめること、③野次等への応答に使う時間をきちんと把握して時間管理をすること。その他色々とありますが、とりあえず次回はこの3点は確実に反映していきたいですね。

 

さて、この反省点をきちんと踏まえた弁論ができていたのかを私なりに振り返ると、

①の構成に関しては前回よりも話の筋道や順番については以前よりもしっかりとしていたと考えています。もちろんもっと上手くできたとは思いますが、努力の方向性は間違いではないと考えています。

②の反省点は今になって思えば意味が分からないですね。これは①の構成をきちんと実現するために必要なだけの単なる方法論ですし、これを意識することはあまりしませんでした。しかし、当初予定していた構成から大幅に外れることはなかったので、この点も問題なかったと思います。

③に関しては、今回の弁論も野次への応答を弁論中に何点か行いましたが、想定の範囲内の野次が多く、想定できる野次への応答を含めた構成を組んでいたこともあり。この点はかなり反省を活かせていたと思います。

 

 

最後に今回の大会での反省点ですが、閉会式で審査員の方がかなり激しく言われていた弁論に対する心構えを参考にしようと思います。

ここで書き連ねると長くなりますので、友人の浅島君の拓大総長杯の感想ブログに詳しく書かれているのでこちらをどうぞ。

 

https://asadziman.hatenablog.com/entry/2019/09/23/030222

10 春秋杯

7月6日に法政大学で行われた第44回春秋杯弁論大会に参加してきました。

今回は事前に原稿をこの場で公開することをしなかったことに関してはお許しください…

色々と事情がありました。

 

さて、何はともあれ五月祭の時に引き続き弁論動画を公開しようと思います。

自分としては黒歴史と言いますか、反省点がとても多く、人に見せられるようなものではないのですが、とはいえ公開すると言ってしまった手前、公開(後悔)します。

drive.google.com

 

以下の文章は弁論動画を見た後がおすすめです。

 

さて、今回の春秋杯での弁論は、五月祭と比べて大きく3点の差異があります。

 

動画を見てもらえればわかりますが、1つ目は原稿を持ち込まずに話すこと。

いくら練習したとしても、ひとたび演台に立てば緊張し、言葉がうまく出てこないものです。そんな中、原稿を持ち込んでしまうとどうしてもそれに頼ってしまう自分がいるのです。用意された原稿を「読む」ことを前提とした弁論では、その日の大会の雰囲気に合わせることや、聴衆の様子に合わせることが困難であり、ましてや弁論中のヤジに対して果敢に応答することなどできません。事前に用意された原稿をただ読むことは、自分にとって「死んだ弁論」なのです。

かねてより、野次を取り入れて弁論していくスタイルの存在に関しては耳にしていましたし、自分としてもそうした弁論をやってみたいと考えた中で、あえて原稿を持ち込まずに自分を追い込むことで、野次をも素材にした弁論の体をなんとか保てたのかなと考えています。自分はこうした弁論を「生きた弁論」と言っています。

今後も積極的に原稿を持たずに演台に立つことを考えていますが、今回の反省点としては、①もっと構成はしっかりとあった方が良いということ、②一貫性を維持するために聞こえが良く汎用性の高い単語をフレーズ単位で記憶して散りばめること、③野次等への応答に使う時間をきちんと把握して時間管理をすること。その他色々とありますが、とりあえず次回はこの3点は確実に反映していきたいですね。

 

次に2点目の差異。

これは、この弁論が聴衆にとって新規ではないことを前提としている、という点です。

弁論大会においては基本的に同じ弁士が同じテーマで話すことはまずありません。明確な規定があるかはわかりませんが、たいていの弁士にとってテーマは大会ごとに使い捨てであり、同じテーマで2大会連続で出る弁士はまず知りません。

今回の弁論はTwitter等々で情報を事前に発信していたこともありますが、それ以前に五月祭で同じようなテーマで話したことを弁論中でも述べていますし、それらを前提として話すという試みは大学弁論界ではまずないことではないでしょうか。

本番まで弁論原稿の内容をひた隠しにする方も多くいますし、そういった意味では特に意味があるかはおいておいて、差異と言えるのではないでしょうか。

 

最期に3点目の差異。

これは、弁論内に自分より前の弁士の弁論についての言及がある、という点です。

これは特に原稿を持たない弁士にしかできない方法だと思います。多くの聴衆や審査員にとって、弁士との共通の話題は(「弁論」を除けば)自分より前の弁士の弁論内容だけと言って良いでしょう。これをうまく活用できれば聴衆や審査員をより引き込むことができるのではないかと考えています。

とはいえ、動画を見られた方はわかると思いますが、今回の自分は見事に失敗しているので、反面教師にでもしてください。

 

 

 

とまぁ、とりあえずこんな感じです。

この弁論がどのような評価を受けたのか、という点に関しても随時公開していくので少々お待ちください。

 

この弁論に関して何かコメントや質問等ありましたらこのブログにコメントするなり、Twitterの質問箱やDM、リプライなどでお願いします。

9 5月祭本番の映像

5月祭の僕の弁論と質疑応答です。

興味ある方は是非見てみてください。

黒歴史として封印するよりも、公開しておいて常に振り返るべきものとして置いときます。

 

この弁論はかなり弁論っぽい感じではないので、普通の弁論とは言えないかもしれません。

質疑応答も含めて、ディベート畑の方には野次などの文化が多少うるさく感じるかもしれませんが、最後まで見てみてください。

聞きたいこととかあったら遠慮なくコメントとかTwitterとかに来てください

 

無断転載とかどこかに流すのはやめてくださいね

 

www.dropbox.com

8 五月祭を振り返って①

五月祭お疲れさまでした。

まずは、大会を準備、運営していただいた東大弁論部の方々にお礼申し上げます。また、当日競い合えた他9名の弁士、、審査員、聴衆の皆さんもお疲れさまでした。

 

僕が弁士として出場するにあたって、前日夜に突然添削を頼んだのに受け入れてくれた藤沢会の方、多くのTwitterでの知り合いの方、本当にありがとうございました。

結果としては学生審査員賞を受賞することができ、皆様に最低限の成果を示せたのかなと思っています。

 

さて、五月祭を振り返ってと言いますか、まずはどのように五月祭に向けた原稿準備をしていったのかを記録として残しておこうと思います。

 

 

3月初めに日吉杯が終わり、運営と弁士の両方に100%の力を入れることはできず、結果として大会運営としても、弁士としても不十分だったと感じました。

 

弁士としてリベンジしようと思い、五月祭に出ようと考え始めたのは日吉杯終了直後からですが、現実に出ると心を決めたのは、実は4月27日の申し込み締め切り日だったりします。というのも、教職課程の追加履修の結果、3月での予想以上にハードな大学生活になっており、十分に力を割くことができるか、他のことができなくなるのではないか、という不安が最後まで頭をよぎり、実際にこの不安は後々に実感することになります。

 

とはいえ、第一原案の完成は既に4月中頃にはできており、その際は導入にシャケトラという競技馬が調教の途中で骨折し、安楽死処置がとられたことを導入に用いつつ、安楽死が、明確な死期と耐えがたい苦痛を取り除く手段として実は受け入れられているのではないか、ということから始め、人間にも同様に安楽死という手段を適用してもよいのではないか、という内容でした。

内容が大きく変わった第二原案では、自身の祖母が認知症を恐れて将来を悲観的に見ていることを紹介し、先の原稿と合わせて、人間にも安楽死を適用し、かつその要件を精神的苦痛も含め、死期が迫っていることを要件から外しました。

 

ここで、大会趣意にある「弁士独自の問題意識」という観点に衝突しました。今のままでは誰でもできる弁論原稿になってしまい、どうにか他人にはできない弁論を……、と考えた末に、僕個人の価値観を全面的に出した原稿として第三原案が大会で使用した原稿の原案です。

 

誰でも死にたい人が死ねる社会、それが僕個人の価値観であり、大会当日の反応を見てもなかなか特殊な考え方なようですので、すくなくともこれくらいやらないと僕の独自の価値観は提示できないだろうとなったわけですね。

 

こういう経緯を辿って、最終的にあの原稿にたどり着いたわけですが、各原案から次の原案に移行するのにそれぞれ約2週間くらいの感覚でしたね。

皆さんの参考になるかは全くわかりませんが、他の弁士の原稿がどういう思考経路をたどって最終形になっていくのかを知る機会はなかなかないと思います。

 

質問なりコメントなり、よければどうぞ。