12 桜門杯

2019年10月5日土曜日、日本大学で行われた桜門杯争奪弁論大会に弁士として出場しました。

 

結論から申し上げますと、今回の弁論大会に関しては私の弁論動画は公開しません。

本来、私が弁論動画を公開していた目的は、公開することで意見や感想などをいただければ私自身の成長や課題発見につながるという打算的なものもありますが、それ以上に様々な事情で弁論会場に直接足を運ぶことが出来なかった方に対しても開かれた弁論を行うための具体的な行動として、というものがありました。

 

しかし、今回に限っては後に後述もしますが、様々な身勝手な理由により公開を止めました。申し訳ありません。

 

 

今回の桜門杯には私を含めて9人の弁士が登壇しました、私は第八弁士での登壇であり、当日は第一弁士~第七弁士の弁論を総評できるほど十分に聞くことが出来なかったため、ここでは割愛します。多くの方は(少なくとも私の知る限りの友人は)総評よりも私自身の弁論についての振り返りの方に関心がありそうです。

 ※大会の総評に関しては、友人のブログ記事が簡潔かつわかりやすくまとめてくださっているのでこちらを是非

日本大学桜門杯弁論大会の総括 - 朝自慢 https://asadziman.hatenablog.com/entry/2019/10/12/000235

 

 

 

さて、私自身の弁論ですが、動画を公開していない分、準備していた論旨を簡潔に書いてみます。

 

① そもそも、学生弁論大会において弁士として演台に立ったとはいえ、聴衆や審査員からすれば弁士など知った存在ではない。という当たり前の前提が学生弁論大会においては忘れられており、従って形式的な導入はさておきいきなり政治・経済などの本題に入る弁論が散見される。

 

② 現実にはいきなり本題などを話し出されても誰も聞かないであろう。しかし、弁論大会においては訓練された聴衆や審査員が、「本来であれば聞いてもらえない」弁論を最後まで集中して聞いている。これははっきり言って聴衆や審査員が弁士を甘やかしている構図であり、だからこそ弁士は気が付くことはない。

 

③ 本来弁論とは一般大衆を説得するための手段である。こと論理展開の技量においては我々弁士は力を入れているが、それを聞かせるための努力を怠っているのではないか。そうした努力とは具体的に、弁士自身に関心を持ってもらうという一連の取り組みではないだろうか。

 

④ こうした「まずは自分自身に興味関心を抱かせる」という考え方は、こと学生においては恋愛の初期で用いられる。だからこそ、弁士諸君、聴衆諸君、恋愛をしようではないか。このために私はこと恋愛や人間関係の構築術として自身の中にあり、実践してきたある考え方を紹介する。

 

⑤ 相手から自分に向けられる好感度を数値化して捉えてみることだ。最初は0。認識して5、話したことはある、顔は覚えているを10。普通に話すことはできるを20。このように段階的に捉えてそれぞれの段階に応じて相手への働きかけを行う。もちろん、段階に応じて行うことが許容される働きかけも異なる。例えば、いきなり合コンの初対面の相手に経済の話をする人間はいないだろう。普通は仲良くなって、ある程度そういう話が出来る間柄になってするものである。しかしまさに弁論の場ではそれを弁士がしているのではないか。

 

⑥ こうした、自身への関心度、もっと言えば好感度数値を弁論を通してコントロールし、適切な組み立てを行うことが、弁論が本当の意味で一般大衆に対する説得力を持つことになるのではないだろうか。こうした取り組みが、雄弁を沈黙以上に価値を持つものにするのではないか。

 

 

以上が桜門杯で私が「行おうとしていた」弁論の論旨です。

実際にはこの論旨通りの弁論ができていたか、もっと正確に言えば、論旨が正しく伝わるような弁論ができていたかと問えば、おそらく不十分であったと思います。

 

この原因はいくつかありますが、そもそも前回の大会から2週間しか期間が無かったこと、持病の喘息が発症していて体調が万全ではなかったこと。こうした点を踏まえて十分に時間をかけて表現技法を創意工夫及び添削することが出来なかったことにあります。

さらにいえば、前回の拓大杯で優勝して気が緩んでいたことも否めません。こうした諸々の点を鑑みて、弁士として演台に立つ以上は最低限すべき努力を怠った責任は重いものだと反省しています。

 

こうした反省を踏まえれば、失敗したからと言って公開を控えるべきではなくむしろ公開することが望ましいと考える方もいるとは思います。しかし、こと今回に限ってはこの失敗が私の想定よりもはるかに精神を削っています。大変身勝手ではありますが、これ以上の心的負担を今掛けるのは危険な状態であり、動画の公開は控えようと思います。

今後回復し、大丈夫と判断出来た際には公開することもあるかもしれません。

 

 

さて、こうした中でも原稿を持たずに演台に上がった私の不完全な弁論の結果は、審査員からの厳しい評価となって私に突き付けられました。中でも審査員長からは9人の弁士の中で唯一質疑され、閉会式でも名指しで叱責され、審査員講評シートにおいても激しい表現で講評がなされました。

 

中にはこうした審査員長の態度を大人げないなどと批判する方もいましたが、その点に関しては学生にわざわざ時間を割いてくださった方のお言葉ですので私はむしろこうした姿勢はありがたい限りと考えます。

実際、講評シートに書かれた表現技法に対する指摘等含めた一連の指摘は私自身の努力不足な面も踏まえて的を射ているものも多く、この場で特段取り上げるような内容ではありませんでした。

 というのも、弁論内容に関する指摘はあまりなく、基本的には表現技法に対しての指摘ばかりだったためです。

 

しかし、大きく1点だけは私としては全く受け入れることが出来なかったため、この場で取り上げておこうかと思います。それは他の大会の審査員を侮辱する発言です。

 

審査員長とはレセプション中にそれなりに話をさせていただいてのですがその中で 

 

   「まともな大会の審査員ならそんなことはしない」

   「そんな審査員がいたらそいつはクズだね」

   「なんでそんなクズな審査員の言葉を真に受けてるのさ」

 

ということを言われていました。これは私が審査員長に対して

「今回の審査員の皆さんは弁士に対して全く何も反応していなかった。質疑すらしなかった。何を考えているのかもどう評価しているのかも全くわからなかった」

ということを言ったことをきっかけとした文脈です。

 

審査員長はこれを、後の弁士に有利なように働くことを防ぐため、とおっしゃいましたが一方で、審査員は聴衆の中で得点を付ける聴衆にすぎない、という考え方も示しています。現実に無反応な聴衆などいるでしょうか。自らを聴衆の一人としていながらも弁士の言葉に対して全く反応を示さない者は聞いていないも同じだと私は考えています。

 

少なくとも私の弁論は聴衆が聞いているのであれば、当然返ってくるであろう反応を予測し、それを取り入れる形での対話形式を取り入れた弁論を模索しています。私のような過剰にそれらを意識していなくても、当然想定されるであろう反応を意識した弁論は少なからず存在します。

 

仮に、審査員長の言う後続の弁士の利にならないために無反応であることが一つの立場として認められたとしても、そうでない審査員を「クズ」だとし、そうした審査員のいる大会を「まともでない」と切り捨てるのはあまりにも他の団体、他の大会を侮辱しています。

実際、多くの学生弁論大会を見れば審査員が弁士の言葉に反応し、時に質疑を行うことなどよく見る光景です。決して、こうした大会がまともでないわけでも、ましてやクズな審査員ではありません。

 

私も過去には弁論大会のこうした審査員から多くの言葉を受けて自身を形成してきました。そうしたもの全てを否定された悔しさを、その場でぶつけられるほど当日の私の弁論は完成されておらず、そうした感情からレセプション中では涙を見せてしまいました。

 

 

他にも特定の弁論スタイルを賛美するような姿勢や、排他的、自身が正解だと思う弁論以外を決して認めようとしない姿勢は(これは私自身も気を付けなければならないことではありますが)、私が今大会の審査員長を受け入れることができない大きな理由です。

 

これは個人的な見解ではありますが、せっかく今回の桜門杯ではパワーポイントの使用可能という枠組みや、補助員の利用が出来る点(この補助員を斬新な形で活用した弁士もいた)などの他の学生弁論大会とは違った取り組みがなされていたにも関わらず、審査員の体制がそうした弁論を評価する姿勢が見られなかったように感じます。

これでは本来の大会の意義を十分に(表彰)結果として弁士や聴衆に示すことが出来なかったのではないかと個人的に感じました。

 

 

他の審査員のコメントに関しては要望があれば追記します。

まずはこの辺で。