8 五月祭を振り返って①

五月祭お疲れさまでした。

まずは、大会を準備、運営していただいた東大弁論部の方々にお礼申し上げます。また、当日競い合えた他9名の弁士、、審査員、聴衆の皆さんもお疲れさまでした。

 

僕が弁士として出場するにあたって、前日夜に突然添削を頼んだのに受け入れてくれた藤沢会の方、多くのTwitterでの知り合いの方、本当にありがとうございました。

結果としては学生審査員賞を受賞することができ、皆様に最低限の成果を示せたのかなと思っています。

 

さて、五月祭を振り返ってと言いますか、まずはどのように五月祭に向けた原稿準備をしていったのかを記録として残しておこうと思います。

 

 

3月初めに日吉杯が終わり、運営と弁士の両方に100%の力を入れることはできず、結果として大会運営としても、弁士としても不十分だったと感じました。

 

弁士としてリベンジしようと思い、五月祭に出ようと考え始めたのは日吉杯終了直後からですが、現実に出ると心を決めたのは、実は4月27日の申し込み締め切り日だったりします。というのも、教職課程の追加履修の結果、3月での予想以上にハードな大学生活になっており、十分に力を割くことができるか、他のことができなくなるのではないか、という不安が最後まで頭をよぎり、実際にこの不安は後々に実感することになります。

 

とはいえ、第一原案の完成は既に4月中頃にはできており、その際は導入にシャケトラという競技馬が調教の途中で骨折し、安楽死処置がとられたことを導入に用いつつ、安楽死が、明確な死期と耐えがたい苦痛を取り除く手段として実は受け入れられているのではないか、ということから始め、人間にも同様に安楽死という手段を適用してもよいのではないか、という内容でした。

内容が大きく変わった第二原案では、自身の祖母が認知症を恐れて将来を悲観的に見ていることを紹介し、先の原稿と合わせて、人間にも安楽死を適用し、かつその要件を精神的苦痛も含め、死期が迫っていることを要件から外しました。

 

ここで、大会趣意にある「弁士独自の問題意識」という観点に衝突しました。今のままでは誰でもできる弁論原稿になってしまい、どうにか他人にはできない弁論を……、と考えた末に、僕個人の価値観を全面的に出した原稿として第三原案が大会で使用した原稿の原案です。

 

誰でも死にたい人が死ねる社会、それが僕個人の価値観であり、大会当日の反応を見てもなかなか特殊な考え方なようですので、すくなくともこれくらいやらないと僕の独自の価値観は提示できないだろうとなったわけですね。

 

こういう経緯を辿って、最終的にあの原稿にたどり着いたわけですが、各原案から次の原案に移行するのにそれぞれ約2週間くらいの感覚でしたね。

皆さんの参考になるかは全くわかりませんが、他の弁士の原稿がどういう思考経路をたどって最終形になっていくのかを知る機会はなかなかないと思います。

 

質問なりコメントなり、よければどうぞ。