1 とりあえず書きかけの弁論原稿でも
深夜テンションで書いた原稿を引っ張り出してきています。
文字数は2000字程度、まだ推敲も何もしていないので、書きっぱなしの原稿案です。
今のところどこかの大会に出すわけでもないので。
以下本文。
この場にいる方は~っと、(数えるしぐさを数秒間)
だいたい50人くらいですか(その場のノリで数は変更)
さて、ここにいる50人で国は変えられますか?
国会前でデモとかしてみますか?
たとえここにいる聴衆の皆さん全員を、私が洗脳できたとしても国家を思うようには変えられません。たった一つの制度を作ることもできません。日本国民の意識を、行動を変えることなどできません。
今までも、そしてこれからも多くの弁士が演台に立ち、国家の在り方や国民意識の在り方など、様々な理念を、熱い思いを、語っていくことになるでしょう。
しかし、現実を前にして弁論は無力です。
この場でいくら弁論をしたところで、変わらないものは変わらない。変えられないものか変えられないのです。
この事実を、弁論が実際に現実を変える、という点では無力であることをまずは認識しなければなりません。
さんざん野次している皆さんに私は言いたい。(野次の内容によって変化させる)
あなた方、今までいろんな弁士の弁論を聞かれていたはずです。一度でも弁士の弁論に影響されて行動しましたか?あなたが行動した結果、現実は変わりましたか?
弁論大会が終わって、レセプションなりでお酒を飲み、いい気持ちになって家に帰っておやすみなさい。
次の日からはまたいつも通りの毎日。違いますか?
弁論は無力だ。先程私はこう言いました。
しかし、もし、弁論に現実を変える力を、与えることができたのならば、弁論を無力だとは言えません。
そして、弁論に現実を変える力を与える方法、それはたった一つ、聴衆の皆さんの態度にあるのです。
弁士の弁論を聞き、それに対して自身の考えを確立し、その信念に基づいて実際に行動を起こすのです。同志を募り、団体を立ち上げるのもよいでしょう。そう言った団体に金銭的援助をするでもよいでしょう。デモに参加するなり、記事を拡散するなり、とにかく行動を起こすのです。
たった一人の弁士の思いが、弁論という形式を通じて聴衆に共有され、聴衆一人一人が実際に行動に移すことでその輪は広まっていく。
こんな夢みたいなことが起きれば、弁論は現実を変える力を持つと言えるのです。弁論は決して無力なんかじゃない。そう胸を張って言えることでしょう。
さて、実際にこんなことはありえません。
この場にいる聴衆の皆さんは、弁論を聞きに来た方がほとんどでしょう。
弁論を聞きに来ただけで、大会後に聞いた内容で実際に、自分自身が、行動しようと思ってきている方はまずいないと思います。
繰り返しましょう。聴衆は弁論を聞きに来ているだけなのです。何か行動を起こすつもりなど初めから無い。
もっと言えば、今までずっといろんな場所で弁論を聞いてきたのに、様々な問題を認識し、改善案が提示されてきたというのに、何もしていない。行動力なんて聴衆にはないのです。
行動力のない聴衆にいくら訴えても、もちろん現実は変わりません。変わるわけがない。
弁論を無力にしているのは、他でもない聴衆自身だというのに、それを自覚せず、中には野次を飛ばし、周囲の聴衆の阻害をするばかりか、理性的に考えることを放棄した者さえいる。
弁論の基本である弁士の言葉を最後まで聞くという、聞く姿勢すらままならない。
悲しいかな。弁論は、弁士がいて、聴衆がいて、初めて成り立つものなのに。もはや聴衆に期待することはできなくなってしまっている。
これからも弁論を続けていくうえで、弁論の価値を考えていくうえで、もはや聴衆に期待することはできない。現実の問題を前にして、動かない聴衆など、説得する価値はない。
弁論は無力だ。現実を変えることはできない。
それならば弁論に価値はないのだろうか。弁論は無力で無意味なのか。
弁論で現実は変わらない。変わるものはなんだ。変えられるものは何だ。
弁論の場にいるのは弁士と聴衆だ。聴衆は変えられない。聴衆を通じて社会を変えることもできない。ならば、弁士自身が変わるしかない。
そう、弁論の価値を、弁士自身に求めるしか道はない。
弁論をした弁士に自己満足してもらうしかないのである。
ここからが本題です。弁論に価値をもたせる方法を考えていきましょう。
我々聴衆は、弁士の思いにこたえる答えることはできません。弁士がいくら現実の問題を語ろうが、解決策を示そうが、それがいかに重要であろうが、我々聴衆には何もできません。する気すらありません。
だからこそ、せめて、弁士が自己満足できる時間を提供してあげませんか。
ここでいう自己満足とは、単に人前で話せていい気分、というものだけではありません。
弁士自らが組み立てた論理、着眼点、そういった部分に適切なフィードバックを提供し、時に、原稿の矛盾や欠陥を指摘する。
何一つ現実は変わっていないけれど、弁士自身が成長でき、価値を感じられるようにすることで、初めて弁論に価値を見出すことができるのではないでしょうか。