6 五月祭原稿案(前日の夜)
弁論をやっていると、どうにも忘れられない弁論というものに出会います。
新入生の方、これから多くの弁論に触れる中で、心を強く揺さぶられる、そんな弁論に出会えると良いですね。あわよくば、今から話す内容がそうであればいいなと思います。
さて、私の記憶に残る弁論の一つに、「死」とりわけ「自殺」を扱った弁士がいました。
内容を簡単に説明すると、「婚約者が自殺した。皆さんはまだ間に合う、身近な者が自殺するのを、何が何でも止めろ」というものでした。
自殺の問題を残された者の悲しみという観点から捉え、何が何でも自殺を止めるべきだ、とする弁士の考えに心打たれた方も多いと思います。
しかし、私は言いたい。何故止めるんだ、止める権利が貴方にはあるのか。これがエゴでなくてなんなんだ、と。
自殺の問題を、残された側の悲しみだけで捉えてはいけない。
本人の苦しみ、生き続けることの苦しみを無視してはいけない。誤魔化してはいけない。あいまいにしてはいけない。
本気で死を望んだことがあるからこそわかる。
死を望む者にとって、「死は、救いだ。」「死こそ、希望だ。」
さて、死を望む者として、ある制度を提案させていただきます。未熟で不完全なものかもしれません。指摘していただければ幸いです。
現実に「死を希望に」するために、私は以下の政策を提言します。
- 原則18歳以上の日本人に対し、理由如何を問わず、安楽死を認めます。
- 安楽死を行う際、行政機関に同意書を提出し、提出日から1か月以上期間を空けた日に、安楽死実行日を設けます。
- 18歳未満の者が安楽死を望む場合、親権者かそれに類するものの同意が求められます。
これら3つの要素をベースとした、「自殺の制度化」を訴えます。
さて、いろいろと違和感をお持ちになった方が多いと思います。
順に解消していきましょう。
まずは、日本国が安楽死を認める必要があるのか、という話。
結論から言えば、現状でもスイスに行けばできます。スイスは唯一、外国人の安楽死を認めている国です。
日本人であっても、200万円とパスポートと、語学力と、スイスに行けるだけの気力、体力があればできます。
じゃあ、スイスに行けばいいじゃんと思った方は、安楽死という方法自体を否定していませんよね。
現実にはお金がない、語学力がない、何より、スイスに行くだけの体力と気力がもう無い人の存在を考えたとき、安楽死の権利を健康な富裕層にだけ与える姿勢はいかがなものかと考えます。
とはいっても、別にスイス行かなくても、日本で自殺できるよね?という至極まっとうな指摘に対して。
確かに自殺はできます。令和になった今年4月の速報値で、自殺者数は1か月で1300人あまり。年間では2~3万人。今この瞬間にも自殺を図っている人がいることでしょう。
彼らは今まで苦痛に耐えながら、やっと自殺の決心をしました。
しかし、首吊り、飛び降り、服薬、絶食、電車ホームに飛び込み、多大な苦しみを伴う手段を選ぶしかありませんし、死に切れる保証もありません。
電車ホームに飛び込んだ暁には、残された家族に多額の損害賠償、社会全体で見ても大きな経済損失を引き起こします。
彼らに安らかな死を認めることの価値は、否定できないと思います。
また、自殺できるのではないか、という疑問に最も顕著なのは、末期がん患者などです。寝たきりの患者が先にあげた方法をとれますか?4
過去には長期間絶食し、壮絶な苦痛に満ちた死を遂げた患者もいます。現状でも自殺ができるから問題ないとはとても言えないと考えます。
ここで、多少知識のある方は、安楽死の4要件とか6要件を思い出す方もいると思います。
簡単に言えば、死期が迫り、苦痛があり、本人に安楽死の意思があり、医者が行い、倫理的に妥当な方法なら、罪に問わないという、裁判で示された考え方です。
この要件、死期が迫った患者でなければ対象外であるうえに、前例がほとんどなく、この要件を満たしていることの証明が困難であること。
安楽死を実行する医者に法的なリスクがあったり、医者の心理的抵抗のために、事実上、日本において安楽死が選択肢になっているとは言えない状況です。
じゃあ、医者の負担にもならず、苦痛無き死をもたらしてくれる安楽死の具体的な方法はなんなんだと、思う方には、「サルコ」というマシーンを紹介します。
中には人一人が入れるスペースがありまして、内側にあるボタンを押すと、内部に窒素が充満していきます。1分半後には意識がもうろうとし、3分後には完全に意識が途絶え、5分後には確実に死ぬことができます。
しかも、飛行機に乗った時に感じる空気の減圧よりも負担が軽く、寝落ちするような感覚だそうです。
このサルコ、前面を透明にすれば、最期の瞬間を好きな景色や、家族を見ながら死ねるそうです。
何より、3Dプリンタで製作可能で、必要なのは液体窒素のみ。医者の介入の必要ないのです。
このように、苦痛無き死は、現在の技術でも可能なのです。
ここまでで、現状は、自殺したい人は多大な苦しみを選択せざるを得ず、そもそも自殺できるような状態でない人も存在すること、その人たちに技術的に安らかな死を与えることができることは理解していただけたと思います。
この制度によって生の苦しみから解放される、メリットを受ける対象がいることはおわかりいただけたとは思いますが、メリットを受ける人がいるから制度を導入していいよね、とはいきません。
特に、制度目的が明確である安直な政策こそ、副作用の存在を認識、検討しなければならないからです。
この副作用、具体的に言えば、死のハードルが下がることで、安易に死を選ぶ人が出てくるのではないか、という指摘です。
この指摘に対し、いかに副作用を制度的に押さえつつ、主目的である、死を望む方々に安楽死を提供するかを考えていきます。
ここで、私が提案した制度を簡単におさらいしましょう。
1つ目は18歳という年齢制限。2つ目は1か月という期間。3つ目は親権者の同意。
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まずは、18歳という年齢制限については民法その他の法律同様、判断能力が十分備わる年齢として一定の要件を設けることは、特に少年期、青年期の、より衝動的な自殺に対して一定の制度的歯止めになるのです。
1か月という期間は、提出された書類を精査し、実際に安楽死の準備をするという行政手続き的な面もありますが、申請者が少なくとも1か月間、継続して死を望んでいるかどうかを判断することもできます。これも、衝動的な自殺を防ぐ、制度的歯止めになります。また、安楽死を実際に申請したことで、死を決心したことで心変わりする可能性も考慮してのことです。
最後に、18歳未満のものの場合、親権者の同意があれば安楽死を認める理由は、小児がんなど、18歳未満の場合でも安楽死が望まれるケースが少なからず存在するからです。
実際、安楽死の年齢制限が撤廃されているベルギーでは、11歳や9歳の少年が親権者の同意のもと、安楽死を行った例が存在します。
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病気や苦痛の辛さに、年齢は関係ありません。判断能力の有無で一定の線引きはすれど、18歳未満だから無条件で認めないとする合理的な理由はないでしょう。
この場合、問題になるのは自殺を望む18歳未満の方で、親権者の同意を得られない場合が存在するのではないか、という指摘です。
確かに、よほど難病でもない限り、親に死にたい、安楽死したいと相談するのは難しいでしょう。また、親自身が認めてくれると考えるのも難しいでしょう。
こうなると、現状と変わらないじゃないかと思う方もいると思います。
しかし、18歳になれば死ぬことができる。この事実の存在は否定できません。
18歳になれば死ねる、そう思えば18歳までは生きていける、まさに、死が希望になるのではないかと考えます。
安楽死制度は、実際にそれを用いた人が安らかに死ねるというものだけではありません。
安楽死制度の存在が、いざとなったら死ねるという事実が、生きる糧になる、闘病の糧になる。
決して、皆さんにこの制度を使ってほしいわけではありません。
ただどうか、死を望む人が、安らかに死ねるようにしませんか。
そして、私に、安らかな死を。
さて、終わりを迎えようとしている私の弁論は、結局のところ死を望む立場のものでしかありません。死を望む方にとっては共感できても、そうでない方には腑に落ちないものでしょう。
私は、死を望むあまり、残されたものの悲しみを、無視してしまっています。
残される側になるかもしれない皆さんへ。
死を望む人にとって、死は希望です。間違いなく死は希望です。
もしあなたが相談を受けたときには、力になってあげてください。
あなたは、まだ希望になれるから。
ただ、相談されてもないのに、哀しみを押し付けないでください。押し付けることを良しとしないでください。
そうなったあなたはもう、希望にはなれないのだから。
ご清聴ありがとうございました。