7 五月祭前夜の原稿2

弁論をやっていると、どうにも忘れられない弁論というものに出会います。

新入生の方、これから多くの弁論に触れる中で、心を強く揺さぶられる、そんな弁論に出会えると良いですね。あわよくば、今から話す内容がそうであればいいなと思います。

 

さて、私の記憶に残る弁論の一つに、「死」とりわけ「自殺」を扱った弁士がいました。

内容を簡単に紹介すると、「婚約者が自殺した。皆さんはまだ間に合う、身近な者が自殺するのを、何が何でも止めろ」というものでした。

 

自殺の問題を残された者の悲しみという観点から捉え、何が何でも自殺を止めるべきだ、とする弁士の考えに心打たれた方も多いと思います。

 

しかし、私は言いたい。何故止めるんだ、止める権利が貴方にはあるのか。これがエゴでなくてなんなんだ、と。

 

自殺の問題を、残された側の悲しみだけで捉えてはいけない。

本人の苦しみ、生き続けることの苦しみを無視してはいけない。誤魔化してはいけない。あいまいにしてはいけない。

 

本気で死を望んだことがある、私だからこそわかる

 

死を望む者にとって、「死は、希望だ。」「死こそ、救いだ。」

 

さて、死を望んだ者として、現実に「死を希望に」するため、私は以下の政策を提言します。

1 原則18歳以上の日本人に対し、理由如何を問わず、安楽死を認めます。

2 安楽死を行う際、行政機関に同意書を提出し、提出日から1か月以上期間を空けた日に、安楽死実行日を設けます。

3 18歳未満の者が安楽死を望む場合、親権者かそれに類するものの同意が求められます。

 

これら3つの要素をベースとした、「自殺の制度化」を訴えます。

 

 

さて、いろいろと違和感をお持ちになった方が多いと思います。

順に解消していきましょう。

 

まずは、日本国が安楽死を認める必要があるのか、という話。

結論から言えば、現状でもスイスで安楽死できます。スイスは唯一、外国人の安楽死を認めている国です。

日本人であっても、200万円とパスポートと、語学力と、スイスに行けるだけの気力、体力があればできます。

ここで、スイスに行けばいいじゃんと思った方は、安楽死という方法を選択すること自体を否定していませんよね。

またその場合、お金も語学力も乏しく、何より、スイスに行くだけの体力と気力すら無い人の存在を考えたとき、安楽死の権利が健康な富裕層にのみ与えられている現状は、真に公平な態度と言えるでしょうか。

 

とはいっても、別にスイスに行かなくても、日本で自殺できるよね?という至極まっとうな指摘に対して。

 

確かに自殺はできます。新元号、令和が発表された今年4月の速報値は、1か月で1300人あまり。年間では2~3万人。今この瞬間にも自殺を図っている人がいるかもしれません。

 

彼らは今まで、生き続ける苦しみに耐えながら、やっと自殺の決心をしました。

しかし、首吊り、飛び降り、服薬、絶食、駅のホームに飛び込みといった、多大な苦しみを伴う手段を選ぶしかありませんし、確実に保証もありません。

駅のホームに飛び込んだ暁には、残された家族に多額の損害賠償、社会全体で見ても大きな経済損失を引き起こします。

 

彼らが彼らのために求める安らかな死というものの価値は、否定できないものです。

また、自殺できるのではないか、という疑問に最も顕著な例として、末期がん患者があげられます。寝たきりの患者は先にあげた方法を実行できるでしょうか。

 

過去には病床で長期間絶食し、苦痛に満ちた壮絶な最期を迎えた患者もいます。現状でも自殺ができるから問題ないとはとても言い難い状況があります。

 

 

ここで、安楽死の4要件とか6要件を持ち出す方もいると思います。

簡単に言えば、死期が迫り、苦痛があり、本人に安楽死の意思があり、医者が行い、倫理的に妥当な方法なら、罪に問わないという、裁判で示された考え方です。

 

この要件には問題点があります。死期が迫った患者でなければ対象外であるうえに、前例がほとんどなく、この要件を満たしていることの証明が困難であることです。

他にも安楽死を実行する医者に法的なリスクや、心理的抵抗のために、事実上、国内で安楽死ができるとは言えないでしょう。

 

 

じゃあ、医者の負担にもならず、苦痛無き死をもたらしてくれる安楽死の具体的な方法はなんなんだと、思う方には、「サルコ」というマシーンを紹介します。

オーストラリアのある医者が開発したものでして、

中には人一人が入れるスペースがあります。内側にあるボタンを押すと、内部に窒素が充満していきます。1分半後には意識がもうろうとし、3分後には完全に意識が途絶え、5分後には確実に死ぬことができます。

しかも、飛行機に乗った時に感じる空気の減圧よりも負担が軽く、寝落ちするような感覚だそうです。

 

さらにこのサルコ、前面を透明にすれば、最期の瞬間を好きな景色や、家族を見ながら死ねるそうです。

そして何より、3Dプリンタで製作可能で、必要なのは液体窒素のみ。医者の介入の必要ないのです。

 

このように、苦痛無き死は、現在の技術でも可能なのです。

 

ここまでで、現状は、自殺したい人は苦痛を伴う手段を選択せざるを得ないこと、またはそもそも自殺できるような状態でない人も存在すること、そして現状では苦しむ彼らに技術的に安らかな死を与えることが可能であるということは理解していただけたと思います。

 

この制度によって生の苦しみから解放される、メリットを受けるからということだけでは制度を導入していいよね、とはいきません。

 

なぜなら、特に制度目的が明確である安直な政策こそ、副作用の存在を認識、検討しなければならないからです。

 

この副作用、具体的に言えば、死のハードルが下がることで、安易に死を選ぶ人が出てくるのではないか、という指摘です。

 

この指摘に対し、いかに副作用を制度的に押さえつつ、主目的である、死を望む方々に安楽死を提供するかを考えていきます。

 

ここで、私が提案した制度を簡単におさらいしましょう。

1つ目は18歳という年齢制限。2つ目は1か月という期間。3つ目は親権者の同意。

 

まずは、18歳という年齢制限については民法その他の法律同様、判断能力が十分備わる年齢として一定の要件を設けることは、特に少年期、青年期の、より衝動的な自殺に対して一定の制度的歯止めになるのです。

 

1か月という期間は、提出された書類を精査し、実際に安楽死の準備をするという行政手続き的な面もありますが、申請者が少なくとも1か月間、継続して死を望んでいるかどうかを判断することもできます。これも、衝動的な自殺を防ぐ、制度的歯止めになります。また、安楽死を実際に申請したことで、死を決心したことで心変わりする可能性も考慮してのことです。

 

最後に、18歳未満のものの場合にあっても、親権者の同意があれば安楽死を認める理由は、小児がんなど、18歳未満の場合でも安楽死が望まれるケースが少なからず存在するからです。

実際、安楽死の年齢制限が撤廃されているベルギーでは、11歳や9歳の少年が親権者の同意のもと、安楽死を行った例が存在します。

 

病気や苦痛の辛さに、年齢は関係ありません。判断能力の有無で一定の線引きは必要ですが、18歳未満だから無条件で認めないとする合理的な理由はないでしょう。

 

この場合、問題になるのは自殺を望む18歳未満の方で、親権者の同意を得られない場合が存在するのではないか、という指摘によるものです。

確かに、よほど難病でもない限り、親に死にたい、安楽死したいと相談するのは難しいでしょう。また、親自身が認めてくれると考えるのも難しいでしょう。

 

こうなると、現状と変わらないじゃないかと思う方もいると思います。

しかし、18歳になれば死ぬことができる。この事実の存在は否定できません。

18歳になれば死ねる、そう思えば18歳までは生きていける、まさに、死が希望になるのではないかと考えます。

 

 

安楽死制度は、実際にそれを用いた人が安らかに死ねるというものだけではありません。

安楽死制度の存在が、いざとなったら死ねるという事実が、生きる糧になる、闘病の糧になる。

 

 

決して、皆さんにこの制度を使ってほしいわけではありません。

 

ただどうか、死を望む人が、安らかに死ねるようにしませんか。

安楽死を、人生の選択肢として認めてあげませんか。

そして、私に、安らかな死を。

 

さて、終わりを迎えようとしている私の弁論は、結局のところ死を望む立場のものでしかありません。死を望む方にとっては共感できても、そうでない方には腑に落ちないものでしょう。

 

私は、死を望むあまり、残されたものの悲しみを、無視してしまっています。

 

ですが、そもそも安らかな死を望み、追い求めることを是としないのは何故でしょうか。

万策尽きた者にとっての生の苦しみから逃れる手段までもを、辛く苦しいものにすることは尊いことと言い切れるでしょうか。

生きつづけることにも苦しんだ人が、自らの選択で命に終止符を打つことまでもが手酷く批判され、悪とされるのは本当に彼らの求める救いになっているでしょうか?

 

 

残される側になるかもしれない皆さんへ。

 

死を望む人にとって、死は希望です。間違いなく死は希望です。

もしあなたが相談を受けたときには、親身になってあげてください。

あなたは、まだ希望になれるかもしれないから。

 

ただ、相談されてもないのに、哀しみを押し付けないでください。本人の、耐えがたい苦痛を、自殺を決意した覚悟を、貶める行為を、哀しみを押し付けることを良しとしないでください。

そうなったあなたはもう、絶望でしかないのだから。

 

 

 

ご清聴ありがとうございました。

6 五月祭原稿案(前日の夜)

 

弁論をやっていると、どうにも忘れられない弁論というものに出会います。

新入生の方、これから多くの弁論に触れる中で、心を強く揺さぶられる、そんな弁論に出会えると良いですね。あわよくば、今から話す内容がそうであればいいなと思います。

 

さて、私の記憶に残る弁論の一つに、「死」とりわけ「自殺」を扱った弁士がいました。

内容を簡単に説明すると、「婚約者が自殺した。皆さんはまだ間に合う、身近な者が自殺するのを、何が何でも止めろ」というものでした。

 

自殺の問題を残された者の悲しみという観点から捉え、何が何でも自殺を止めるべきだ、とする弁士の考えに心打たれた方も多いと思います。

 

しかし、私は言いたい。何故止めるんだ、止める権利が貴方にはあるのか。これがエゴでなくてなんなんだ、と。

 

自殺の問題を、残された側の悲しみだけで捉えてはいけない。

本人の苦しみ、生き続けることの苦しみを無視してはいけない。誤魔化してはいけない。あいまいにしてはいけない。

 

本気で死を望んだことがあるからこそわかる。

 

死を望む者にとって、「死は、救いだ。」「死こそ、希望だ。」

 

 

さて、死を望む者として、ある制度を提案させていただきます。未熟で不完全なものかもしれません。指摘していただければ幸いです。

 

現実に「死を希望に」するために、私は以下の政策を提言します。

  • 原則18歳以上の日本人に対し、理由如何を問わず、安楽死を認めます。
  • 安楽死を行う際、行政機関に同意書を提出し、提出日から1か月以上期間を空けた日に、安楽死実行日を設けます。
  • 18歳未満の者が安楽死を望む場合、親権者かそれに類するものの同意が求められます。

 

これら3つの要素をベースとした、「自殺の制度化」を訴えます。

 

さて、いろいろと違和感をお持ちになった方が多いと思います。

順に解消していきましょう。

 

まずは、日本国が安楽死を認める必要があるのか、という話。

結論から言えば、現状でもスイスに行けばできます。スイスは唯一、外国人の安楽死を認めている国です。

日本人であっても、200万円とパスポートと、語学力と、スイスに行けるだけの気力、体力があればできます。

じゃあ、スイスに行けばいいじゃんと思った方は、安楽死という方法自体を否定していませんよね。

現実にはお金がない、語学力がない、何より、スイスに行くだけの体力と気力がもう無い人の存在を考えたとき、安楽死の権利を健康な富裕層にだけ与える姿勢はいかがなものかと考えます。

 

とはいっても、別にスイス行かなくても、日本で自殺できるよね?という至極まっとうな指摘に対して。

 

確かに自殺はできます。令和になった今年4月の速報値で、自殺者数は1か月で1300人あまり。年間では2~3万人。今この瞬間にも自殺を図っている人がいることでしょう。

 

彼らは今まで苦痛に耐えながら、やっと自殺の決心をしました。

しかし、首吊り、飛び降り、服薬、絶食、電車ホームに飛び込み、多大な苦しみを伴う手段を選ぶしかありませんし、死に切れる保証もありません。

電車ホームに飛び込んだ暁には、残された家族に多額の損害賠償、社会全体で見ても大きな経済損失を引き起こします。

彼らに安らかな死を認めることの価値は、否定できないと思います。

 

また、自殺できるのではないか、という疑問に最も顕著なのは、末期がん患者などです。寝たきりの患者が先にあげた方法をとれますか?4

過去には長期間絶食し、壮絶な苦痛に満ちた死を遂げた患者もいます。現状でも自殺ができるから問題ないとはとても言えないと考えます。

 

 

ここで、多少知識のある方は、安楽死の4要件とか6要件を思い出す方もいると思います。

簡単に言えば、死期が迫り、苦痛があり、本人に安楽死の意思があり、医者が行い、倫理的に妥当な方法なら、罪に問わないという、裁判で示された考え方です。

 

この要件、死期が迫った患者でなければ対象外であるうえに、前例がほとんどなく、この要件を満たしていることの証明が困難であること。

安楽死を実行する医者に法的なリスクがあったり、医者の心理的抵抗のために、事実上、日本において安楽死が選択肢になっているとは言えない状況です。

 

 

じゃあ、医者の負担にもならず、苦痛無き死をもたらしてくれる安楽死の具体的な方法はなんなんだと、思う方には、「サルコ」というマシーンを紹介します。

中には人一人が入れるスペースがありまして、内側にあるボタンを押すと、内部に窒素が充満していきます。1分半後には意識がもうろうとし、3分後には完全に意識が途絶え、5分後には確実に死ぬことができます。

しかも、飛行機に乗った時に感じる空気の減圧よりも負担が軽く、寝落ちするような感覚だそうです。

 

このサルコ、前面を透明にすれば、最期の瞬間を好きな景色や、家族を見ながら死ねるそうです。

何より、3Dプリンタで製作可能で、必要なのは液体窒素のみ。医者の介入の必要ないのです。

 

このように、苦痛無き死は、現在の技術でも可能なのです。

 

ここまでで、現状は、自殺したい人は多大な苦しみを選択せざるを得ず、そもそも自殺できるような状態でない人も存在すること、その人たちに技術的に安らかな死を与えることができることは理解していただけたと思います。

 

 

この制度によって生の苦しみから解放される、メリットを受ける対象がいることはおわかりいただけたとは思いますが、メリットを受ける人がいるから制度を導入していいよね、とはいきません。

 

特に、制度目的が明確である安直な政策こそ、副作用の存在を認識、検討しなければならないからです。

 

この副作用、具体的に言えば、死のハードルが下がることで、安易に死を選ぶ人が出てくるのではないか、という指摘です。

 

この指摘に対し、いかに副作用を制度的に押さえつつ、主目的である、死を望む方々に安楽死を提供するかを考えていきます。

 

ここで、私が提案した制度を簡単におさらいしましょう。

1つ目は18歳という年齢制限。2つ目は1か月という期間。3つ目は親権者の同意。

7.

まずは、18歳という年齢制限については民法その他の法律同様、判断能力が十分備わる年齢として一定の要件を設けることは、特に少年期、青年期の、より衝動的な自殺に対して一定の制度的歯止めになるのです。

 

1か月という期間は、提出された書類を精査し、実際に安楽死の準備をするという行政手続き的な面もありますが、申請者が少なくとも1か月間、継続して死を望んでいるかどうかを判断することもできます。これも、衝動的な自殺を防ぐ、制度的歯止めになります。また、安楽死を実際に申請したことで、死を決心したことで心変わりする可能性も考慮してのことです。

 

最後に、18歳未満のものの場合、親権者の同意があれば安楽死を認める理由は、小児がんなど、18歳未満の場合でも安楽死が望まれるケースが少なからず存在するからです。

実際、安楽死の年齢制限が撤廃されているベルギーでは、11歳や9歳の少年が親権者の同意のもと、安楽死を行った例が存在します。

病気や苦痛の辛さに、年齢は関係ありません。判断能力の有無で一定の線引きはすれど、18歳未満だから無条件で認めないとする合理的な理由はないでしょう。

 

この場合、問題になるのは自殺を望む18歳未満の方で、親権者の同意を得られない場合が存在するのではないか、という指摘です。

確かに、よほど難病でもない限り、親に死にたい、安楽死したいと相談するのは難しいでしょう。また、親自身が認めてくれると考えるのも難しいでしょう。

 

こうなると、現状と変わらないじゃないかと思う方もいると思います。

しかし、18歳になれば死ぬことができる。この事実の存在は否定できません。

18歳になれば死ねる、そう思えば18歳までは生きていける、まさに、死が希望になるのではないかと考えます。

 

 

安楽死制度は、実際にそれを用いた人が安らかに死ねるというものだけではありません。

安楽死制度の存在が、いざとなったら死ねるという事実が、生きる糧になる、闘病の糧になる。

 

 

決して、皆さんにこの制度を使ってほしいわけではありません。

 

ただどうか、死を望む人が、安らかに死ねるようにしませんか。

そして、私に、安らかな死を。

 

さて、終わりを迎えようとしている私の弁論は、結局のところ死を望む立場のものでしかありません。死を望む方にとっては共感できても、そうでない方には腑に落ちないものでしょう。

 

私は、死を望むあまり、残されたものの悲しみを、無視してしまっています。

 

残される側になるかもしれない皆さんへ。

 

死を望む人にとって、死は希望です。間違いなく死は希望です。

もしあなたが相談を受けたときには、力になってあげてください。

あなたは、まだ希望になれるから。

 

ただ、相談されてもないのに、哀しみを押し付けないでください。押し付けることを良しとしないでください。

そうなったあなたはもう、希望にはなれないのだから。

 

ご清聴ありがとうございました。

5 添削練習 

弁論活動には添削という行為がつきものです。

新入生を迎えるにあたって、添削の練習や、自分の添削を添削してもらう機会があればなぁと考えていたところ、友人のTempan氏が許可してくれたので、Tempan氏の原稿を自分なりに添削してみようかなと。

以降は、以下のリンク先のTempan氏の日吉杯最終稿を添削していくので、まずはこちらを読むことをお勧めします。

(添削というより批評になってしまっているが、何かコメントある方は遠慮なくどうぞ)

tempan.hateblo.jp

 

導入に関しては特に問題なし。

 

投票しても元に戻ってしまう、というところに関しては弁士の言いたいフレーズだろうという想像ができるが、一方で、例示されていたものを考えると、落選した候補者Bに投票していた人からすれば、元に戻ってしまう、という表現は可能だとは思うが、候補者Aに投票している人からすればこの時点で元に戻っていないだろうと言えるでしょう。

ここで既に、弁士が考える選挙に行かないロジックでは説明ができない動きがでてきてしまっているのは構造上の問題かと。

 

結局のところ、この段階で弁士が問題視していると聴衆が考えるのは、いわゆる「死票」(落選した候補者に投票された票)の存在が選挙に行かない理由だ、となってしまっている可能性がある。

恐らく弁士が問題視している問題意識と聴衆との間で認識のずれが生じてしまう原因の1つかと。

 

そして、この誤解は原稿中にある「死に票」という弁士独自の表現によってさらなる混乱を招いていると考えられます。

原稿内での「死に票」は「死票」と明確に区別されており、私の理解としては、小選挙区選挙において、対立候補の得票を上回って当選するために必要な票数を超える分の票、言い換えれば、結果論、当選には必要なかったあまりの票、という認識かなと。

 

まず、この概念を認識させるうえで、この票を「死に票」と表現するのはかなりまずい。「死票」との区別を聞き取ることも難しく、この場合は「あまり票」などと表現を変える工夫が必要です。

 

さて、弁士はここから「死に票」の解消を目指すべく新しい選挙制度を提案していくとしているのだが、この時点で「死票」の話が完全に失われてしまっている。

導入から「死票」の話を経由して「死に票」の話をしていた弁士にとって、「死票」の問題点を回収せずに話が進行することはやはり構造上の問題と言わざるを得ない。

 

それはともかく、「死に票」を解消するプランについて見ていく。

弁士は得票数を国会での票数として反映させることで解決しようとしています。

このプランについては弁士の強い思い入れが感じられるため、大幅な変更を前提とした添削はすべきでないと判断します。

しかし、この時点で票数が加算されることが大きな意味を持つのかという疑問がどうしても残ります。ここについては後述します。

 

議員視点の話を見ると、議員がさらなる力を求めるために少数意見を取り入れるインセンティブがあるとしているが、これはかなり怪しい。

そもそも、議員個人がたとえ問題解決したところで、それを有権者が認識し、その議員に投票するのか。問題解決されればまた次の問題を解決しろと騒ぐのが有権者であり、特定の争点に対してだけで投票しているのか、などの分析がないままに進んでいるので、要改善かなと。

 

そして、修正案として全国区と成り議員代なるものの導入。

全国区に関してはそれ自体は問題ないものの、小選挙区と全国区、手法の違う選挙制度があることの意義を問われたときの応答は事前に用意しなければならない。

 

成り議員代という制度は、大きく2つ問題点を抱えています。

1、この制度が「死票」の発生源になる。

2、議員数の予測が全くつかない。

 

まず、成り議員代が事実上の議員になるために必要な票数になり、落選する候補者が出ます。このボーダーラインを何票にするのかを原稿で示さないと、そもそもプラン導入後の世界が全く想像できません。このラインは弁士に聞かなければなりませんし、その数字の根拠も示す必要があるでしょう。

また、少数派の意見を議員自らが取り入れるという話が不透明であるため、少数意見の代表者が直接議員になる機会を確実にするためには、極論を言えばボーダーを設定しない方が望ましいとも考えられるので、要検討かと。

 

一方で、こうした背景には原稿中にもあるように議員数の抑制を目的とした面もあるようだが、このプランでは議員数が固定されない。これ自体が様々な問題を引きおこすだろう。

政党支援金だったり、諸々の政治家へのお金、議員経験とか、大臣ポストだったり、様々な問題が容易に想像できる。

プランを導入した際に、選挙制度が今よりもよくなるのかもしれないが、国家として大丈夫なのか?という当たり前の疑問は原稿段階で解決すべき。

 

 

最後に、1票の価値が確かになるということだが、結局これは有権者1億人の票数で国会で多数決するわけだから、結局国政に反映できるのは1億分の1票であるという本質が変化するわけでもない。もちろん合理的無知が解消されるとも考えられない。

 

 

 

 といった感じで、弁士の思考を理解するためのカギとなる単語のワードチョイスの改善と、プランの影響が弁士の想定していないところに大きな影響を及ぼすことが容易に想像できるので、その点を具体的に指摘し、弁士に対して応答案の作成や、プラン後の分析の加筆・修正を求めていく感じになるかなと。

 

 

4 弁論大会原稿(2018年6月 慶慶新人戦)

過去の弁論原稿をひっそりと公開しておこうと思います。

今になって見返せばもっとやりようはあったと感じますが、弁論に触れて2ヵ月だとこんな弁論原稿しか書けないのだなぁと思うばかりです。

 

 

以下本文

 

導入 (210)

働けど働けど 猶わが暮らし 楽にならざり ぢっと手を見る、石川啄木の歌集、一握の砂の代表作です。啄木の苦労が歌から読み取れます。

 

現状の日本の労働環境に目を向けると、まさに、働けど働けど、という言葉が適切だと感じます。もっと言えば、働いても働いても、生活が楽にならない、こういった閉塞感は、個人の生活を超えて経済全体、国全体を覆っているようにも感じられます。

 

これは単なる杞憂ではなく、実際に我が国が直面している課題でもあります。

 

理念 (51)

本弁論の目的は、こうした閉塞感を打破し、将来世代にわたって活力ある国力と雇用の維持を実現することです。

 

紹介 (431)

現在、我が国では労働者の雇用を維持するため、労働者を簡単に解雇できないようにするために解雇規制というものが存在します。

解雇規制とは、国会が定めた成文法ではなく、裁判での数多くの判例から確立した判例法です。これには大きく4つの要素が存在します。

これら4要素を紹介しますと、解雇する必要性がある場合において認められる、という意味で「1、人員整理の必要性」、解雇以外のあらゆる手を尽くさなければならないという意味で「2、解雇回避努力義務」、解雇される人を恣意的に選んではならないという意味で「3、被解雇者選定の合理性」、解雇に至るまでのプロセスを適切に行わなければならないという意味で「4、解雇手続きの妥当性」です。

 

これらはどのように確立してきたのでしょうか。

1970年代、高度経済成長期に目覚ましい経済発展を成し遂げた日本では、社員は家族、このスローガンのもと、一人の人間が一つの会社で生涯働き続けることが当たり前でした。

こうした社会の流れを受けて解雇規制は確立しました。

 

現状 (650)

こうして労働者の保護を目的として成立した解雇規制は、現在ではその存在がかえって労働者を苦しめるものになっています。

 

一度、解雇規制を労働者の視点ではなく、雇用する企業の側から捉えてみましょう。

IT化やAIの台頭といった革新的な技術進歩、グローバル化の中で国際競争、産業構造の変化が激しくなっている現在、企業には臨機応変選択と集中が求められているといえます。

 

こうした状況の中で、容易に解雇ができない企業は選択と集中ができず、不採算事業を抱えこんでしまいます。こうした不採算事業の抱え込みは、直近では2009年のリーマンショック時に顕在化し、雇用保蔵を400万人以上抱える結果になりました。

また、不採算事業を抱えなければならないために、新規事業開発に積極的に取り組めない、リソースを十分に投下できない状態になっています。

 

実際に、各国統計を比較分析した研究によれば、新規産業を含む高リスクかつ革新的な産業分野において、雇用保護規制が厳しい国や地域を企業が避けることや、雇用保護規制が強い国ほど産業数も少なく、規模も小さいことが明らかになっています。

 

 

不採算事業に労働者を抱え込むことは、企業にとって大きな負担になるだけでなく、労働者にとっても給料削減や福利厚生の劣悪化など、生活に大きな悪影響を及ぼします。

しかも、これは現在の問題のみならず、将来世代において雇用の受け皿となる企業の減少に直結する問題です。

 

このまま何も手を打たずにいれば、日本国内の雇用は加速度的に先細りし、企業、労働者双方に回復不能なダメージを与えます。

 

原因 (1,027)

なぜこのような状況になっているのか。その根本的な原因は時代錯誤な解雇規制に他なりません。もちろん、企業よりも弱い立場に置かれる労働者の雇用を保護するという「本来の」目的自体は否定されるべきでないと考えます。しかし、現在の解雇規制では雇用は守られないどころか悪化すると考えます。

 

では、なぜ解雇規制が根本の原因であると言えるのでしょうか。

 

まず最初に、先ほど紹介した、現在の解雇規制4要素における問題点をお話しします。

具体的には、解雇する必要性がある場合において認められる、という意味で紹介した「人員整理の必要性」と、解雇以外のあらゆる手を尽くさなければならない、という意味で紹介した「解雇回避努力義務」についてです。

 

この二つの要素に関して、解雇の必要性が認められるかどうかは裁判の場で裁判官の判断にゆだねられており、企業にとって予見可能性の低い状態になっています。また、これが認められる経営状態は、単に収支決算が赤字というだけでなく、非正規雇用の削減や、人件費の削減、新規採用の抑制、業務量の増加などを行っているか、なども判断材料になります。

 

つまり、雇用されている労働者の待遇も極限まで切り詰められ、企業も体力を失い、新規採用の抑制という形で、雇用されていない労働者も雇用される機会を失うという事態を招いています。

 

次に、具体的に将来世代にどう悪影響を与えているかお話しします。

先ほど紹介したとおり、すでに分析として、雇用保護規制が強い国ほど新規産業の数が少なく、規模が小さいことが明らかになっています。これは、安易に解雇ができないことが、

新規産業に対する参入ハードルと撤退ハードルを上げているためです。

まず、参入ハードルについては、先ほどお話ししたように、既存の産業が不採算である場合において資本を多く投下できないということに加え、今ある産業が不採算事業になってしまった場合のことを考え、資本を積立金として企業内留保に回さなければならないということです。実際に我が国において企業内留保が増えている、にもかかわらず目立った新規産業がないのはこのためです。

また、撤退ハードルについては、新規産業自体が失敗してしまった場合に、解雇が容易でないことが、負債の増加要因になってしまうというということです。

こうした2つのハードルのために、新規産業の数が少なく、規模が小さくなってしまいます。結果として、将来において企業の数、規模が維持されず、雇用が失われてしまうのです。

 

政策 (583)

このような状況を打破するために、私は3つの政策を提言します。

1つ目は、解雇規制法理の明文化、2つ目は、解雇規制の4要件のうち2要件の廃止、3つ目は、金銭解雇制度の導入です。

 

まず、1つ目の。解雇規制法理の明文化についてです。

現在の解雇規制法理は判例法という形で明文化されておらず、企業にとって予見可能性が低くなる要因の一因になっています。これを新たに労働基準法に明記します。

 

次に、2つ目の、解雇規制の4要件のうち2要件の廃止について説明します。

廃止する2要件は、「整理解雇の必要性」と「解雇回避努力義務の履行」です。これにより、企業がより合理的に行動しやすくなり、残りの2要件、「被解雇者選定の合理性」、「解雇手続きの妥当性」については現行のまま明記します。

 

しかし、これでは労働者の雇用が保護されず、自由に解雇されるようになってしまうのではないか、と考えられる方もいらっしゃると思います。ここで、3つ目の政策として金銭解雇制度を導入します。これは、解雇をする際に、一定額の金銭を払わなければならないというもので、解雇された労働者の生活を保護できることになります。

 

以上をまとめると、企業が合理的な行動をとりやすくするために、解雇規制を緩和し、それを明文化します。また、労働者の雇用を守るために同時に金銭の支払いを企業に義務付け、労働者の生活をある程度守れるようにします。

 

 

結語 (243)

国は、現在の労働者だけでなく、将来の労働者も含めて雇用を維持すべきです。この観点から、解雇規制の存在によって、将来世代の雇用量そのものが低下してしまうという非効率性が発生している以上、解雇規制が現在の労働者を保護する根拠にはなりえません。

 

将来世代の雇用を維持するためには、企業が合理的な経済活動を可能にする環境を整えるべきです。この目的のため、一刻も早く硬直的な解雇規制を緩和し、時代に合った、新しい形の雇用規制を推進すべきであると考え、提言いたします。

 

ご清聴、ありがとうございました。

3 政策弁論と価値弁論の違いって何?

※この先は 2私なりの弁論の考え を読んだ後がおすすめです。

 

聴衆として政策弁論と価値弁論の見分け方、というか聞き分け方を考えていきましょう。ぶっちゃけ、どちらかわかる必要があるかと聞かれたら、別に必要ではないかもしれません。

しかし、どちらかを聞いている最中に考えている聴衆が一定数いる可能性は否定できません。事実、私は聞きながらこの弁論が政策なのか価値なのかは常に意識しています。

 

この聴衆の意識は時として弁士の説得を阻害します。例えば、価値弁論のつもりで書いた原稿を、政策弁論だと思い込んでしまった聴衆は解決策が提示されないと疑問を残すことになります。

聴衆視点での聞き分け方を考えれば、同時に原稿を書く側として聴衆を混乱させる可能性を低くできるわけです。

 

 

さて、弁論を聞き始めて政策弁論なのか、価値弁論を判断しようとする際、弁士が「今から私は政策弁論をします。」とか言ってくれることはまずありません。

弁論を最後まで聞いた段階の判断に関しては政策弁論に限って言えば、判断は容易です。弁士が政策弁論の基本4要素を守り、「~点の政策を提言いたします。」などと言い出したら、ほぼ間違いなく政策弁論のつもりで原稿を作成しています。

 

政策弁論を政策弁論たらしめる要素は、まさに政策を提言するかどうか、というところにあるのだと考えています。

 

逆に、政策弁論と価値弁論の2種類しかないと仮定すれば、政策弁論の4要素(特に解決策の提示)を満たしていない弁論は価値弁論だと判断してもよいわけです。

 

しかし、現実には4要素のうち、いくつかの要素にそもそも言及していなかったり、言及していることが聴衆に伝わりずらい弁論が存在します。

政策弁論ではない=価値弁論 というわけではなく、現実には政策弁論になりきれていない弁論の存在を認めなければなりません。

 

 

さて、政策弁論になりきれなかった弁論(これ以降は「政策弁論α」と表記)の中でも、特に解決策がない政策弁論αと価値弁論との見分け方は非常に困難です。

政策弁論の導入にも実体験を含める手法は広く浸透しており、弁士の体験の有無をもって判断するのは困難です。この区分に関しては価値弁論の部分で記述します。

繰り返しになりますが、聴衆視点で判別する必要があるかと言われれば判別する必要は必ずしもありません。

 

しかし、価値弁論として評価されるのか、はたまた政策弁論の要素が欠落した欠陥弁論として評価されるのかは審査員審査には少なからず影響しますし、結局弁士はどこに重きを置いていて、何を言いたいのか、という主張そのものを曖昧にします。この混乱を生じさせたのは弁士本人に他なりませんから、弁士の評価が下がり、入賞を逃すリスクを増やすことにもつながります。

 

政策弁論の原稿を書く際は、聴衆に価値弁論と勘違いをさせないような工夫が求められます。前述したとおり、途中で「~点の政策を提言します」と入れてけば、ほとんどの聴衆はこの段階で「政策弁論なんだな」と確信できます。ですが、そこに至るまでに政策弁論だと確信させる、少なくとも価値弁論だと勘違いさせないための工夫も同時に必要です。

 

簡単に3つほど手法を載せてみます。

①問題は解決されなければならない、というニュアンスを含めて解決策の提示を暗示

②既存の政策の欠点を指摘、これを現状分析の段階で行うことで説得力の向上を図るとともに新規政策の存在を暗示

③導入で用いた弁士の体験を一般化し、社会問題へと展開すること。

 

いずれにせよ、解決策が提示されるだろうという認識を聴衆に持たせることができれば、価値弁論と誤解される可能性はかなり低くなると考えられます。

 

 

 

さて、政策弁論を書く場合は割と簡単です。問題は、価値弁論をいかにして価値弁論たらしめるか、ということにあります。

価値弁論はその性質上、問題の解決を主目的にせず、あくまでも弁士の考え方や価値観を伝えることに主目的を置いています。

 

弁士の特筆すべき体験をもとに原稿が進むわけですが、この段階では政策弁論の導入としての体験紹介なのか、はたまた価値弁論なのかの判別はできません。

しかし、弁士の体験が一般化され、社会問題として扱われ始めたら政策弁論の可能性が高まります。また、一般化されずに体験から弁士個人の考え方や価値観の変化の話が進めば価値弁論の可能性が高まります。

 

ここからが問題です。政策弁論αの中には一般化したものの解決策を提示しないもの、もしくは、体験の一般化をしないままに解決策を提示するものが存在します。

 

とりあえず体験の一般化をしたものの解決策を示さない政策弁論αとの差別化を図るために、価値弁論では体験の一般化をしないことが必要かと思われます。

というか、一般化する必要がないのです。人間は他者の体験を共感によって追体験することが可能です。というかこの共感を用いて説得するのが価値弁論なのです。聴衆自身が弁士の体験を自身に当てはめて考えてくれるわけですから、そこに無理に一般化することはリスクを増加させかねないと考えています。

 

さて、体験の一般化をしないままに解決策を提示する政策弁論αに関しては正直考える必要はないと思います。この場合は、むしろこの政策弁論αがおかしいのであって、体験の一般化をしないままに政策を提示する方がおかしいのと考えているので。。

 

政策弁論と違い、価値弁論はその主目的である考え方や価値観を伝えるという部分ではなく、いかに政策弁論と勘違いされないように立ち回るかが重要だ、ということです。

 

価値弁論を価値弁論たらしめる要素は弁士の体験の一般化をしない、というところにあると考えています。

 

 

以上の考えはあくまでも私個人のものなので、鵜呑みにはせず、各自で批判的に考えてみて下さい。

参考になれば幸いです。

 

 

 

 

 

2 私なりの弁論についての考え

弁論というものに触れてまだ1年もたっていないわけですが、自分の中に弁論というものについての考えがある程度まとまってきたのでここにも書いておきます。

何回かに分けて投稿しますが、この内容は4月の新歓が終わって新入部員が入ってきた際に「弁論とはこういうものだよ」ということを教える際の教材のもとになりますので、何か言いたいことがある方はコメントなりしてくださると助かります。

 

 

 

①弁論とは何か(外面)

 

基本は弁士の弁論時間と質疑応答時間のセット。

弁士の弁論中や質疑応答中の不規則発言(いわゆる野次)を認めている場合もあるが、認めていない場合もある。

質疑応答が認められていない場合もあるらしい。

原則は弁士の表現方法は言葉と多少の身振り手振りだが、パワーポイントといった視覚情報を最大限使用できる大会もある。

 

②弁論とは何か(内面)

弁論そのものの目的自体は聴衆、および審査員の説得にあるとされている。

この見解も争える部分があるが、とりあえず説得という目的において、形式として一般に2つのジャンルに分けられている。

価値弁論と政策弁論の2つですね。

 

この2つの区分だとかそれぞれの特徴のとらえ方というのが特に個人差があるものなので、ここについて詳しく自分の考えを書いておきます。

 

 ②-1 政策弁論

政策(提言)弁論は原稿の構成基本要素がある程度定まっていると考えています。

おおまかに言えば以下の4点を満たしたうえで、冒頭に導入、最後に締めの文章を入れる形が基本となるでしょう。

 

 ⅰ 問題の認識 (問題が社会に存在することに認識、及びその問題の深刻さ)

 ⅱ 現状分析  (認識した問題の分析。特にその根本原因)

 ⅲ 解決策   (根本原因を解消する策。政策なり制度なり)

 ⅳ 解決過程  (提示した策が現実をどう変えるのか。問題が解消される過程)

 

この4要素が抜け落ちると、途端に弁論そのものの説得力が失われます。

何がどう問題なのか、何が原因なのか、どう解決するのか、本当に解決するのか。

この疑問を持たせないために必要な要素ということになります。この4要素を満たしたうえで、さらに新規性や弁士の独自性が含まれることが高評価を得るために求められてきます。

 

政策弁論の特徴は、とにかく論理の一貫性と妥当性が大事です。

弁論の目的が説得であるならば、政策弁論は聴衆を「納得させて」説得する。といえるでしょう。聴衆に「理解させて」説得する、と言い換えてもよいかもしれません。

 

(このため、弁論中に聴衆ができるだけ考えないようにする原稿が望ましいと考えています。原稿の流れで、聴衆が弁士の論理展開に引っ掛かりを覚えないようにすることが求められる、ということです。論理が一貫していることはもちろんのこと、論理展開の過程で不必要に聴衆に考えさせることは、聴衆を論理的に説得することを阻害するおそれがあります。この具体例や方法などについてはまた別の機会にすることにします。)

 

 

 ②-2 価値弁論

価値弁論は基本要素となる概念をあまり見出せません。

しいて言うならば、弁士の特筆すべき体験が含まれている、ということにつきます。

 

価値弁論の特徴として一つ挙げらげられるのは、解決策の提示が必ずしも必要ないということです。

弁士が持つ独特の考え方や価値観といったものが特筆すべき体験に依存するために、その価値観や考え方を伝えることに重点を置くもので、体験にまつわる考え方や価値観が変わる契機となった問題を解決することを必ずしも目的としません。

 

また、弁士の独自の体験をもとにし、なおかつその解決を目的とするわけではないことから、その体験を一般化せず、結果としてあくまでも弁士個人の問題にとどまっていると言えます。

 

しかしながら、この価値弁論が一定の評価を得やすいのは、ひとえに弁論の根幹が体験にあることで、聴衆が弁士に感情移入、もとい「共感」し、弁士の技量ではない部分である程度勝手に説得されてしまうからだと考えています。

 

政策弁論が聴衆を「納得させて」説得するものなのに対し、価値弁論は聴衆に「共感してもらって」説得するものだと考えています。

 

 

とりあえずここまでで、次はこの2つの差についてもっと深く掘り下げてみましょうかね。

 

 

 

1 とりあえず書きかけの弁論原稿でも

深夜テンションで書いた原稿を引っ張り出してきています。

文字数は2000字程度、まだ推敲も何もしていないので、書きっぱなしの原稿案です。

今のところどこかの大会に出すわけでもないので。

 

以下本文。

 

 

この場にいる方は~っと、(数えるしぐさを数秒間)

だいたい50人くらいですか(その場のノリで数は変更)

 

さて、ここにいる50人で国は変えられますか?

国会前でデモとかしてみますか?

 

たとえここにいる聴衆の皆さん全員を、私が洗脳できたとしても国家を思うようには変えられません。たった一つの制度を作ることもできません。日本国民の意識を、行動を変えることなどできません。

 

 

今までも、そしてこれからも多くの弁士が演台に立ち、国家の在り方や国民意識の在り方など、様々な理念を、熱い思いを、語っていくことになるでしょう。

 

しかし、現実を前にして弁論は無力です。

この場でいくら弁論をしたところで、変わらないものは変わらない。変えられないものか変えられないのです。

 

この事実を、弁論が実際に現実を変える、という点では無力であることをまずは認識しなければなりません。

 

さんざん野次している皆さんに私は言いたい。(野次の内容によって変化させる)

あなた方、今までいろんな弁士の弁論を聞かれていたはずです。一度でも弁士の弁論に影響されて行動しましたか?あなたが行動した結果、現実は変わりましたか?

 

弁論大会が終わって、レセプションなりでお酒を飲み、いい気持ちになって家に帰っておやすみなさい。

次の日からはまたいつも通りの毎日。違いますか?

 

 

 

弁論は無力だ。先程私はこう言いました。

しかし、もし、弁論に現実を変える力を、与えることができたのならば、弁論を無力だとは言えません。

 

そして、弁論に現実を変える力を与える方法、それはたった一つ、聴衆の皆さんの態度にあるのです。

 

弁士の弁論を聞き、それに対して自身の考えを確立し、その信念に基づいて実際に行動を起こすのです。同志を募り、団体を立ち上げるのもよいでしょう。そう言った団体に金銭的援助をするでもよいでしょう。デモに参加するなり、記事を拡散するなり、とにかく行動を起こすのです。

 

たった一人の弁士の思いが、弁論という形式を通じて聴衆に共有され、聴衆一人一人が実際に行動に移すことでその輪は広まっていく。

 

こんな夢みたいなことが起きれば、弁論は現実を変える力を持つと言えるのです。弁論は決して無力なんかじゃない。そう胸を張って言えることでしょう。

 

 

さて、実際にこんなことはありえません。

この場にいる聴衆の皆さんは、弁論を聞きに来た方がほとんどでしょう。

弁論を聞きに来ただけで、大会後に聞いた内容で実際に、自分自身が、行動しようと思ってきている方はまずいないと思います。

 

 

繰り返しましょう。聴衆は弁論を聞きに来ているだけなのです。何か行動を起こすつもりなど初めから無い。

もっと言えば、今までずっといろんな場所で弁論を聞いてきたのに、様々な問題を認識し、改善案が提示されてきたというのに、何もしていない。行動力なんて聴衆にはないのです。

 

行動力のない聴衆にいくら訴えても、もちろん現実は変わりません。変わるわけがない。

 

弁論を無力にしているのは、他でもない聴衆自身だというのに、それを自覚せず、中には野次を飛ばし、周囲の聴衆の阻害をするばかりか、理性的に考えることを放棄した者さえいる。

弁論の基本である弁士の言葉を最後まで聞くという、聞く姿勢すらままならない。

 

 

悲しいかな。弁論は、弁士がいて、聴衆がいて、初めて成り立つものなのに。もはや聴衆に期待することはできなくなってしまっている。

 

これからも弁論を続けていくうえで、弁論の価値を考えていくうえで、もはや聴衆に期待することはできない。現実の問題を前にして、動かない聴衆など、説得する価値はない。

 

 

弁論は無力だ。現実を変えることはできない。

それならば弁論に価値はないのだろうか。弁論は無力で無意味なのか。

 

弁論で現実は変わらない。変わるものはなんだ。変えられるものは何だ。

弁論の場にいるのは弁士と聴衆だ。聴衆は変えられない。聴衆を通じて社会を変えることもできない。ならば、弁士自身が変わるしかない。

 

そう、弁論の価値を、弁士自身に求めるしか道はない。

 

弁論をした弁士に自己満足してもらうしかないのである。

 

 

ここからが本題です。弁論に価値をもたせる方法を考えていきましょう。

我々聴衆は、弁士の思いにこたえる答えることはできません。弁士がいくら現実の問題を語ろうが、解決策を示そうが、それがいかに重要であろうが、我々聴衆には何もできません。する気すらありません。

 

だからこそ、せめて、弁士が自己満足できる時間を提供してあげませんか。

ここでいう自己満足とは、単に人前で話せていい気分、というものだけではありません。

弁士自らが組み立てた論理、着眼点、そういった部分に適切なフィードバックを提供し、時に、原稿の矛盾や欠陥を指摘する。

 

何一つ現実は変わっていないけれど、弁士自身が成長でき、価値を感じられるようにすることで、初めて弁論に価値を見出すことができるのではないでしょうか。